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現代に生きるガングロたち

ギャルというキーワードから何を思い浮かべるだろうか。アムラー、コギャル、109、ヤマンバ、ルーズソックス、チョベリバ、白ギャル、パラパラ、ギャル曽根、アゲ嬢、つけまつげ、姫ギャル、ギャルサー、浜田ブリトニー、ギャルママ…そして、やはりガングロ。90年代後半に、真っ黒に日焼けしたギャルたちが、ガングロブームを巻き起こした。当時の私は、まだ子供だったので、ガングロブームの記憶はなく、物心ついた頃には、既にブームは過ぎ去っており、ガングロたちも絶滅したと思っていた。しかし、国内最大規模のギャルサー〈Black Diamond〉は、現在もガングロ・メンバーで構成されている。しかも、彼女たちは、2018年6月6日に、『チョベリグ Lucky♡Day』という楽曲で歌手デビューも果たした。同時期には、ガングロたちのバイブルだった『egg』もウェブ版で復活。更にGANG PARADEのメンバーであるユイ・ガ・ドクソンや、青山テルマのMVでも、ガングロやパラパラが取り入れられるなど、平成も終わりだというのに、ガングロにまつわる話題を耳にする機会が増えている。

Black Diamondの運営を務める浅野毅氏は、かつて自身もギャル男としてギャルカルチャーを盛り上げてきた張本人だ。今回は、ギャルカルチャーに長いあいだ携わり、最前線で支えてきた浅野氏に、ガングロブームと衰退、そして現代に生きるガングロたちについて語ってもらった。

浅野氏インタビューと併せて、Black Diamondのメンバーオフショットもお届けする。あおちゃん、まーちりん、くろみ、ぇりもっこりの4人の撮影を予定していたが、くろみは1時間の遅刻、ぇりもっこりに至っては時間内に現れず、いかにもガングロらしいと思ってしまったのだが、ブームから20年、現代のガングロたちは、どのような生活を送っているのだろうか。

ギャルカルチャーが誕生したのはいつですか?

90年代に流行した〈アムラー〉が、ギャルカルチャーの始まりです。安室奈美恵さんに憧れて、茶髪や細眉にしていたコギャルが進化を遂げて、現代のギャルに繋がっています。

そのなかで、〈ガングロ〉が流行したのはいつですか?

1999年~2001年頃ですね。ガングロという名称の由来は〈ガンガンに日焼けをしている〉〈顔が黒い〉と諸説あります。ガングロがより激しいメイクを施した〈ヤマンバ〉も登場しました。

誰が、ガングロブームに火を付けたのでしょう?

〈ゴングロ三兄弟〉のリーダーであるブリテリが、ガングロのカリスマといわれてました。でも、当時はSNSもなかったですし、今と比べてギャルは閉鎖的なアンダーグラウンドなカルチャーだったんですよ。

ギャルカルチャーが閉鎖的だったとは意外ですね。

2009年頃、益若つばささんがマスメディアに登場するまでは閉鎖的でした。例えば、最近だと、藤田ニコルさんや、みちょぱさんは有名ですよね。でも当時は、ガングロたちからカリスマ扱いされていたブリテリですら、世間的な知名度はありませんでした。

主にガングロたちはどこにいたのでしょうか?

渋谷が総本山でしたね。当時の渋谷はガングロが集まりすぎて、一般人の肩身が狭いくらいでした。ガングロたちは渋谷で情報交換をしていたので、渋谷の町がSNSのような役割をしていたんです。

渋谷以外に、ガングロたちの情報源は?

『egg』という雑誌がガングロたちのバイブルでした。ガングロ界では『egg』にストリートスナップが掲載されると、神のような扱いを受けましたから。僕は大阪の田舎出身ですが、『egg』を読んで「渋谷ではこれが流行ってるのか。真似するぞ!」って思ってましたね。

都会のガングロと、田舎のガングロの違いを教えてください。

都会のガングロは、見た目がそうであっても、実は家がお金持ちというパターンが多かった気がします。僕の地元では、ガングロとヤンキーは同類というイメージがありました。

私は当時を知らないので、ガングロには、「黒い」というイメージしかないのですが、他にもガングロならではのルールみたいなものはあったのでしょうか?

肌が黒いのはもちろんですが、パラパラが踊れるのも絶対条件でしたね。

日サロで肌を焼いて、パラパラが踊れなければガングロとはいえない?

本当にそれくらいパラパラは大事でしたよ。でもやはり、肌が真っ黒であればあるほど、彼女たちのステータスになっていたと思います。週の半分、日サロに通っているガングロもいましたし。ガングロを突き詰めていくと、感覚が狂ってきて、じゅうぶん黒いはずなのに、「私は肌が白いんじゃないか?」と思えてくるんです。あと、日サロには扇風機が設置されているのですが、扇風機を回すと日焼けしにくくなるともいわれていましたね。

本当に日焼けしにくくなるんですか?

いえ、実際はそんなことはないんですけどね(笑)。ガングロのあいだで、扇風機を回したら負けという暗黙の了解があったんです。もちろん見た目も大事ですが「いちどきりの人生をハッチャける」という、ガングロ魂が大事でしたから。ガングロは誰になにをいわれても、やりたくないことは絶対にしません。とにかく自己主張を貫く子が多かったです。

ガングロを志す若者は、見た目だけに憧れていたわけではないということですか?

もちろん理由はそれぞれですが、ガングロの反体制的な部分に憧れる子は多かったです。親御さんと絶縁状態で、誰かの家を泊まり歩いたり、アイライナーの代わりに油性マジックを使うような子もいました。最近のガングロの子たちは、昔に比べると落ち着きましたよね。

それは、どうしてですか?

益若つばささんが登場した頃から、ガングロを含めたギャルに、〈=不良〉という概念が希薄になったからではないでしょうか。最近のガングロは、話せばわかってくれる子が増えました。ですから、マネジメントする側からすると、とても扱いやすくなりましたよ。母の日には、お母さんに花を送る子もいますし。

その後、ガングロブームは衰退しますが、それは何故ですか?

白ギャルを推した『小悪魔ageha』という雑誌が出たのが大きかったですね。浜崎あゆみさんがブームになり、ガングロは下火になりました。黒肌は維持するのに手間もお金もかかるので、白肌ギャルにシフトするガングロもいました。

白肌ブームのなかで、ガングロを貫き通すギャルもいたんですか?

2012年に『egg』の増刊号が出たとき、僕はガングロのキャスティングを手伝いました。人脈をフル活用して全国に呼びかけたら、何十人もガングロが集まったんですよ。ギャルサー〈Black Diamond〉は、その撮影で意気投合したガングロたちが、これからも定期的に集まろうということで結成しました。すぐに、Black Diamondのホームページを立ち上げて、メンバー募集をしたら応募が殺到して、僕もびっくりしました(笑)。半年ほどでメンバーが100人以上に増え、メディアに取り上げられたり、クールジャパンのイベントから声が掛かり海外進出もしました。

海外での反応はいかがでしたか?

米国、フランス、イタリアなどに行ったのですが、予想以上にガングロに対する反応が良かったんですよ。日本のガングロ、ギャルカルチャーは、海外でも広まっていて、海外でもギャルサーが誕生しています。スペインのギャルサーのメンバーは、バルセロナ広場でパラパラを練習しているそうですよ。

現在、Black Diamondのメンバーは何名いるのですか?

一軍が50人くらいで、研究生は300人程度ですね。現役のガングロのほとんどは、Black Diamondのメンバーだと思います。2015年の1月にBlack Diamondのメンバーと交流できる場所として、渋谷に〈ガングロカフェ〉をオープンしました。

オープン当初の集客状況はどうでしたか?

お客様がゼロの日もありましたね。売り上げが伸びないまま、半年が経過し、店じまいも考えていたんですけど、そのあとに『月曜から夜ふかし』で取り上げていただいたんです。放送の翌日からお客様は殺到しましたね。でも、本来のターゲットとは違うところで火がついた感はありました。やはりリピートしてくださるのは、Black Diamondファンのかたでした。

それからはお客様が少しずつ増えていったのですが、2018年7月18日をもって、ガングロカフェは営業を一旦終了し長期休業に入りました。ガングロカフェスタッフの選抜メンバーが歌手としてデビューしたのですが、予想以上に好評でオファーが殺到したんです。限られたメンバーで、ガングロカフェの営業を続けながら、ライブなどをこなしていくのは厳しくなってしまいました。今後、ガングロが増えて、人手不足が解消されれば、再オープンするかもしれません。

普段のBlack Diamondのメンバーは、どんな生活をしているんでしょう?

「人前に出るときだけでしょう?」といわれたりもしますが、普段からメンバーはガングロスタイルですよ。今では、ガングロの総本山だった渋谷を歩いていても、盗撮されてSNSにアップされたり、「動物園からゴリラが脱走したぞ!」と指さされるのも日常茶飯事。それくらいガングロは珍しい存在になってしまったんですよね。

今は、派手なつけまつげや洋服を手に入れるのにも苦労しそうですね。

ガングロが流行していた頃は〈d.i.a〉というブランドがコテコテのギャル服を展開していましたが、需要がないのでブランドの方向性は変わってしまいましたね。渋谷のドンキにすら、ガングロ好みのつけまつげやカラコンは置いてないんですよ。元ガングロがメルカリに出品している古着を買い漁ったり、埼玉や栃木に住んでいる子は地元のドンキで探したりしているらしいです。お金も掛かるし、今のガングロの子たちは本当に苦労していますね。

Black Diamondのメンバーの平均年齢は何歳ですか?

20歳~25歳くらいです。幼稚園や小学校時代にガングロ全盛で衝撃を受けた子たちや、Black DiamondをマスメディアやSNSで見てガングロになった子もいます。彼女たちからすれば、今流行っている清楚系のギャルなんて甘いんですよ。これからもBlack Diamondの活動を続けて、ガングロが消滅しないようにしていきたいです。

そこまで浅野さんがガングロにこだわるのは何故ですか?

僕もガングロブーム真っ只中に、ギャル男として楽しい青春時代を過ごしていたので、単純にガングロカルチャーが消えてしまうのは寂しいんです。これからは海外にもアプローチをしていきたいですし、正統派のガングロスタイルを絶やさないように、次世代にも受け継いでいきたいですね。

〈愛〉について。アレック・ソスが語りかける写真表現

© Alec Soth / Magnum Photos

恋愛と結婚は違う。使い古された、どこぞのOL、あるいは、ませた女子高生の発言のようだが、現実は、その冷めきった発言が的を得ているのかもしれない。実にたくましい。

現代社会において、永遠の愛を全うできた人物はいるのだろうか。初恋も、初めての彼氏彼女も、これまで付き合った彼氏彼女も、結婚して、その生活が続いていない限り、すべての愛は終わっている、といっても過言ではないだろう。一方で、結婚した相手であれば愛が続いている、といえるのだろうか? 結婚するまでの20年か30年か、それ以上か、それまで経験した恋愛の失敗を踏まえたうえでの決断だから、間違いないとでもいうのだろうか? そんなのは、おそらく詭弁だろう。愛という感情は、いつかは終わる。それは、現代社会を生きる人々にとっては、ほぼ間違いない現実ではなかろうか。

もちろん、子供の親、相談相手、同居人といったように、愛とは違うかたちで良好な関係を続ける人々は多いのかもしれない。平安時代の人々はどうだったのか? 人生が20年、30年であれば、それは理解できる。近代国家となった明治時代はどうか? 50歳くらいまでの人生であれば、まだ理解できる。寿命の問題がすべてではないだろうが、平均寿命が90歳にも迫るとされる現代社会においては、恋愛と結婚と出産と死期とのバランスを再考する時期ではないか。フランスでは、婚姻以外のパートナーシップを容認する民事連帯契約が生まれた。結婚生活とは別の愛のかたちが、世界中で求められる日も遠くないのかもしれない。それでも、永遠の愛への憧れは消えないかもしれないが…。

隣の家からは、ピアノの音色が聞こえてくる。1度は耳にしたことがあるクラシックの名曲ではあるが、曲名が思い出せない。となりにいる新たな恋人は、そっぽを向いて眠っている。これからも過去の記憶を消去しながら、同じようなことを繰り返し生きていくのだろうか。リアリティーよりファンタジーを求めて。

マグナムフォトに所属するアレック・ソスが写真集『SLEEPING BY THE MISSISSIPPI』に続き、2018年8月『NIAGARA』を復刊した。前作品は〈夢〉と〈自由〉がテーマになっていたが、今回は〈愛〉がテーマ。音もなければ、味も香りもしない。その世界に触れることもできないし、言葉さえ発しない。すべては視覚のみに頼った写真というメディアを使って、〈愛〉を巡る物語は、どのように語られ、観るものの内に何を呼び起こすのだろうか?

© Alec Soth / Magnum Photos

このプロジェクトを始めたきっかけは?

私の最初の写真集『SLEEPING BY THE MISSISSIPPI』では、ミシシッピ川をメタファーとして用いました。アメリカ大陸を北から南へと縦断するミシシッピ川に沿って撮影し、〈夢〉や〈自由〉という壮大なテーマについて語りかけることができました。次のプロジェクトに取り組むにあたり、同じ方法論を用いながら、違うテーマで作品をつくりたかった。そこでナイアガラの滝を使って、〈愛〉について語りかけることにしたのです。

自身のヌードをKISSのポール・スタンレー(Paul Stanley)に送り、彼との子供を産もうと試みる熱狂的な女性ファン、パートナーの血を求め合うカップル、亡くなった恋人を想い続ける男、少女に執着する男性など、様々な〈愛〉について、カップルのヌード写真と手紙、小説『ロリータ』の一節を用いて表現していますよね。過去にリリースした写真集『Looking for Love 1996』と同様に、あなたが『NIAGARA』で愛をテーマに、創作した理由を教えてください。

音楽、ポエム、小説など、愛はあらゆるアートの主題となっています。それにも関わらず、写真を使った表現で〈愛〉を語るべきではない、と考えられているのは、奇妙なことです。私の作品は、ドキュメンタリー写真のように観えますが、私は、もっとロマンティックなんです(笑)。

では、カップルのヌードを撮影したのは、なぜでしょうか?

カップルのポートレートを撮り始めた当初、何度撮影しても、満足いく写真が撮れませんでした。被写体がひとりなら、写真家と被写体のあいだに大きなエネルギーが生まれますが、そこに、ひとり加わるだけで、途端に魔法がとけてしまう。そこで、カップルにヌードになってもらい、新たなエネルギーを写し撮ることに成功しました。

また、『NIAGARA 』では、〈愛〉の象徴のひとつとして結婚式をクローズアップしています。ウエディングドレスや結婚式当日の家族写真などが掲載されています。おそらく、アメリカの一般的な結婚式は、日本のそれとは、異なるのでしょう。この写真集をより理解するうえで、まず、アメリカにおける一般的な結婚式のしきたりをについて教えてください。

米国での結婚式は、多岐にわたります。当時、最も人気のあった新婚旅行先といえばナイアガラの滝でした。ラスベガスやハワイへと人気が移ってから、随分と時が経っています。そのなかで、ナイアガラの滝を撮影場所に選んだのは、昔のならわし、私の祖父母の若かりし頃の文化を想起させるからです。さらに、私が結婚そのものに感じているノスタルジックなイメージにも結びついています。現代を生きる夫婦が、結婚生活を破綻させないよう苦闘する姿をよく目にします。その姿が、ナイアガラの滝が実在する場所と重なるのです。75年前に、多くの人々がイメージしていた理想の姿からは程遠く、全くロマンティックではないナイアガラの現実です。

なるほど。では、結婚式とともに、米国人が抱くナイアガラの滝への認識も把握しておきたいです。ナイアガラの滝は、カナダと米国の国境に位置する荒々しい大自然、といったイメージを、多くの日本人が抱くのではないでしょうか? グランドキャニオンと同様に、日本にはない、壮大な自然を体感できるとともに、米国が持つ圧倒的な軍事力、経済力、あるいは果てしない自由といったイメージと重ね合わせる人もいるのではないか、と感じています

ナイアガラの滝は、確かに、自然の壮大な力を感じられる場所ですが、グランドキャニオンや富士山と比べると、圧倒的に人工的に〈つくられた〉場所だ、と感じます。産業技術者たちが、何世代にもわたり、自然が持つ根源的なパワーを維持しながら、観光名所としても機能するように、修繕し続けています。だからこそ、この場所を、人工的な場所、とも捉えられるのです。私自身、実際にナイアガラの滝に足を運ぶと、その圧倒的な力とともに、滝を支えるための膨大な努力を感じます。おそらく、多くの米国人も同じような印象を抱いているはずです。

また、モーテルの写真も数多く掲載されています。日本ではモーテルがほとんどありません。ラブホテル、ビジネスホテル、シティホテル、そして旅館など、日本にある宿泊施設とは、どれも異なります。私が宿泊したことがあるLAやサンフランシスコなどの数十件のモーテルは、どちらかというと日本のビジネスホテルを、簡素化したイメージがあります。愛し合う恋人がモーテルに泊まる、と聞くと違和感を感じてしまいます。しかし、この写真集では、愛が育まれる場所として、モーテルが描かれているのだろうと感じます。米国人のモーテルについての認識を教えてください。

モーテルは、米国の特性を把握するための重要なイメージです。高速道路に基づく自動車文化は、米国社会には欠かせません。そして、モーテルも、個人の自由という私たちが描くアメリカン・ドリームへと直結しているのです。米国製のクラシック・カーやバイクのように、昔ながらのモーテルも米国文化を象徴するひとつのシンボルです。こういう、アイコニックなモーテルは、『ロリータ』でも見事に描写されており、この小説の一節を写真集に引用した理由でもあります。ナイアガラには、いまだに、私たちが想像する通りのクラシックなモーテルがたくさんあります。まさに、私の祖父母の世代が、新婚旅行で経由した場所です。モーテルが物語る〈郷愁〉と〈失望〉が、混ざり合った感情は、この写真集の大きなテーマのひとつです。

『SLEEPING BY THE MISSISSIPPI』では、ミシシッピ川を比喩に〈Stream of consciousness(意識の流れ)〉を使用した表現方法を試みた、とおっしゃってました。それによって、米国中部、もっと言えば人間の〈夢〉や〈自由〉について表現することを追い求めていましたよね。『NIAGARA』でも、ナイアガラの滝、結婚式、モーテルを比喩に、愛、そして、米国社会、さらには人間の本質について表現しようとしていますよね。今回意識した文学的な表現、あるいは哲学などあるのでしょうか?

ナイアガラは、実に小さな地域のため〈意識の流れ〉という表現方法はとれませんでした。今回はむしろ、毎日、毎日、同じ小さな穴を掘り進める、炭鉱作業員のような心持ちで撮影しました。

〈自分の記憶を呼び覚ます〉ことも、写真集のテーマのひとつですよね。巻末に卒業アルバム、ポラロイド写真を探していた、とあります。過去の自分を見つめ直すのは、今の自分自身を理解するために有効なのでしょうか? あなたの体験を交えて教えてください。

私は、何事であれ記憶するのが苦手なので、この質問に正確に答えられません。昔のことをほとんど覚えてないし、写真や日記で記録しておくのも苦手です。自分の日常生活の細部は覚えていないのに、他人との出会いを記録することで、写真家としてのキャリアを築いているなんておかしな話ですよね(笑)。

上記の質問に付随して、『NIAGARA』は『SLEEPING BY THE MISSISSIPPI』に続いて2冊目の復刊ですが、自分自身の過去のプロジェクトについて、時が経ったからこそ見えてきたことはあるのでしょうか?

以前の作品を振り返ると、エネルギーと未熟さが混在しているのがわかります。新しい作品に取り組むさい、様々な試行錯誤や実験、我を忘れて飛び込んでみることの重要性を再認識させられます。もちろん、初期の作品なので、至らない要素も発見します。ただ、その欠けている要素こそが、新しい作品をつくるための動機や原動力となります。その精神こそ、新たなチャレンジには欠かせないものだ、と実感させられます。

モーテルの中で繰り広げられている世界を想像させられ、2人のポートレートや手紙により様々な愛のカタチを想像させられ、ナイアガラの滝によって抗えない運命、恐ろしさ、人工物の醜さなどを連想してしまいます。愛は、自分の思い込みや希望、ファンタジーの結集であると同時に、実態がなく、いつか終わる、儚いものだと捉えています。実在せず、不確かなもの、という諦めもありますが、ついつい、全ての情熱を捧げ、終わりのない愛に希望を抱いてしまう自分もいます。愛を通じて、夢と現実、現実と過去、リアルと虚構、それぞれの境目で葛藤している自分がいます。人間の不可解さが浮き彫りになる一方、生きる歓びも感じられます。あなたが、アートを用いて愛を問いかけた理由を、改めて教えてください。

私が、〈愛〉、そして〈憧れ〉をテーマにした作品に挑む理由は、まさに、そのような反応を期待しているからです。結局、私にとって、アートを観るのも、製作するのも、目的は同じです。〈ひとりではない〉と少しでも信じていたいという欲求だけが、私を突き動かしています。

© Alec Soth / Magnum Photos

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ヤクザ、女装、歌舞伎町…。 星玄人が描き撮る〈人間の血〉と〈街の血気〉

街を歩いていて、とても興味深いが、関われば、暴力的で恐ろしい結末に陥るかもしれない。あるいは、得体の知れないパワーにより、災いが降りかかるかもしれない。そんな物事に遭遇したとき、思わず目を背けてしまう。あるいは、見て見ぬ振りをして、こっそり気づかれないように、覗き見てみたりする。

法律や道徳はもちろん、自分の度量では、とても対処できないかもしれない、天才や幽霊、あるいは、自分とは異なりすぎて別世界で生きているように感じられる人々に出くわすと、好奇心と同時に恐怖が頭を過ぎる。自分が築き上げてきた価値観や、幸せに生きていると思っている命までも揺らぎかねないとビビりながらも、すべてを覆す新しい何かに期待して心が踊るのも確かである。

人それぞれ価値観は違うだろうが、勉学や仕事や恋愛、子育てでも同じかもしれない。とても魅力的だが、自分自身が問われるだろう物事へ挑むとき、手は出すものの、尻込みし、後回しにしたり、挙げ句の果てに投げ出そうとしてみたり、失敗し取り返しのつかない事態を想像し、それによって受ける制裁やダメージに慄くことは、誰しもあるのではないだろうか。もっと言えば、生まれた直後の赤ん坊のころは、新しい物事の連続に、ただただ好奇心だけを抱いていたのかもしれない。そして、教育や痛い目にあった経験を重ねることで、安定はするが、危険を犯さないよう、恐怖心を植えつけられながら大人になった、ともいえるだろう。

2018年にリリースされた星玄人の写真集『口笛』には、ヤクザ、女装した男性、男装する女性、薬物中毒者、美女、とんでもなく怪我を負ったもの、身体障がい者、路上生活者など、普段の生活では、恐らく目を背けてしまうだろう人々が、おさめられている。
興味はあるが、街で出会ったら、絶対に面と向かって直視できない人々の登場に、はじめは、恐る恐る覗き見ているような気分で、ページをめくったが、その1枚1枚の写真のエネルギーに、いつしか、のめり込んでいった。

それは、被写体の魅力だけではないだろう。写真家が、何を感じ、どのように撮影したのか、そして、何を写そうとしているのか。恐る恐る、そしてワクワクしながら、星玄人のインタビューに向かった。

人種も国籍も年齢も性別も判別できないような、魅力的な人たちで溢れている写真集ですね。例えば、この上の写真は、どのような状況で撮影したんですか?

これは新宿のゴールデン街で撮影したんですが、多分女装の人で、イベントか、何かの帰りだったんでしょうね。

やはり、新宿の写真が多いですよね。

新宿は、自分たちがやっている〈サードディストリクトギャラリー〉もあるし、知り合いも多い。いくら、つまらなくなったとはいえ、やっぱり人が多いし、層は厚いんじゃないですかね。あとは、横浜ですかね。地元なんで。

横浜で撮影した写真を、いくつか紹介してください。

このふたつの写真は、横浜で撮影したんですが、上の写真は、例えば、歌舞伎町にコマ劇場があった時代は、前の広場が溜まり場で、いろんな人が飲んで集まっていたんですが、彼は、そういうところにきて、笛を吹いたりしていたので、何度も撮っていたんです。ぬいぐるみの帽子みたいな被り物は、知り合いのカメラマンが、面白がって拾ってきたのをあげたら、気に入っちゃって、それから、ずっと被りながら、うろうろしてました。それで、たまたま、横浜で会ったときに撮った1枚です。

不思議な少年ですよね。

あと、その下の写真は、普段、あんまり撮らないような写真なんですけどね。この写真を撮る前に、女の人を撮っていたら怒っちゃって、そしたら、近くにいた男に追っかけ回されて、ダッシュで逃げたんです。だけど、捕まっちゃって、警察に突き出されたんです。警察で「これこれ、こういう意図で撮ってるんだけど、相手が嫌だっていうんなら、しょうがないから、消しますよ」って始末書を書いて、帰されたんですけどね。自分が悪いんだけど、悔しくてムシャクシャしていたときに、たまたま、関内駅を降りたら、こういう状況だったんです。そのときは、やけくそだったから、いきなり撮っちゃったんですよね。そしたら、2人ともびっくりしてましたよ。「あっちが手を出してきたんだ」って、バンダナの人が言ってて、そしたら、サラリーマンの人が駅の中にパッて入ったから、あいつを追っかけるとか、わけがわからないことを言って、バンダナの人も、そのまま、バックレちゃいました(笑)。

一方で、この方は違った意味で、魅力的です。この写真は、新宿、横浜、どちらで撮影したんですか?

大阪の西成です。お母さんと一緒にいたんですけど、これは本当に〈いい感じの写真〉ですよね。西成の写真は、この写真集にも何枚か入っています。

新宿と西成、街や街にいる人の違いを、どう捉えていますか?

まず、街の意味合いが違いますよね。最初に西成に行ったのが、2006年で、最初に出したモノクロの写真集にも、ちょっと入っています。もともと、横浜のなかでも「寿町とか撮影しないの」とか、西成の雰囲気に近いドヤ街について聞かれることも多かったんですけど「土方のオヤジに興味ないしな」って思ってたんです。だけど、西成に行ってみたら、歌舞伎町が霞んで見えましたね。当時は、自由業で時間があったので、だいたい1週間くらい泊って、毎日撮ってました。それを3回くらい繰り返してっていうのを何度かして、その度に写真展をやってました。ただ、僕は、写真って、街に出たり入ったりの要素が、必要だと思うのですが、ああいう街って、なかなか住んでないと難しいところもありますよね。

入り込むのが難しい場所ですよね。他にも、撮影しに行く場所はあるのですか?

例えば、六本木や川崎とか赤羽も、たまに行くんですけど、慣れてない分、多少面白いんですけど、やっぱり、撮った写真を、後から見比べてみると、新宿の写真が強かったりするんですよね。

新宿の写真が魅力的になるのは、なぜでしょうか?

写真を観る目も、インパクトの強さだけじゃなくて、もっと長く観れて耐えられる、飽きないものとか、自分の中で、なかなか消費できないものを選ぶとか、変わってきているのもあります。ただ、自分の写真が、どういう写真なのか、どういう距離感なのかっていうと、その時々のものだから、一概には言えないですよね。割と、新宿も長いから、もう撮り慣れてるし、刺激がないから、面白くないんだけど、やっぱり、新宿中心になっちゃうんです。

新宿がつまらなくなった、と感じているようですが、どのように変化してきていると、体感されてるんですか?

まず、建物が変わっちゃうと人の流れが大きく変わるでしょ。昔は、街全体が怪しいエネルギーを醸し出してましたけど、やっぱりコマ劇前がなくなって、今は一角だけですよね。外国人の観光客も多いし、世代交代もあるのかもしれないけど、全体的に、なんか怪しさが薄まっちゃってる感じがします。

歌舞伎町で、ボラれたり、カモられたり、絡まれたり、良く聞く話でしたよね。店に入ったらポッキーだけで5000円だった、とか(笑)。

もともと歌舞伎町って、サラリーマンの人らも、ちょっと危ない部分を求めて、遊びに来てたんですよ。ただ、やる方も、やりすぎるようになってきてるし、限度を超えた部分が、あるんでしょうね。あとは、行政が、どうにかしないといけない、と動きながら、一方で、税金を巻き上げてるだけだっていう話もありますけどね。ただ、そういう危うさは、無くならないものだと思いますけどね。

ちょっとした武勇伝ではないですけど、後から笑い話になりますもんね。ソワソワする一方、ワクワクしますし、確かに、怪しさに惹かれる、というのもわかります。

また、家出なのか、不安定そうな女性が1人で写っている写真も、違う意味で怪しさを放ってますよね。

この上の写真の人は、出している空気が、そもそも、すごく怪しくてですね。名古屋で撮らせてもらったんですけど、看護婦さんだったかな?撮影したあと、電話がかかってきて、本当に、ちょっと変わってる人で「あのとき、私は変身していて、企業のスパイをやってた」って話してました。

不思議ですね(笑)。その下の写真の女性も、なんとも言えない雰囲気ですね。

この人は、僕がサードディストリクトギャラリーで写真展をやっていたときに、上の階のイベント貸しの飲み屋さんでやっていたDJイベントに来ていたみたいで、それで、僕の写真展にも寄ってくれたんです。そしたら割と反応してくれて、一緒に飲んでいたんです。そのあと、この人が、上に上がっていくときに「ちょっと顔出してよ」って言われたから、後からいってみたんですけど、そしたら、すごいヘロヘロになっていて、思いっきり浮いてるんですよ。そしたら、急に外に出て泣き出して…。そのときの写真です。なんで泣いてたんだろう?

怪しいというか不思議というか…。また、昭和か平成か、時代感も、よくわからないのも被写体の魅力を引き立たせている要素だと思います。iPhoneなどの持ち物から、最近撮影した写真だろう、と理解できるものもありますが、具体的には、いつからいつまでの作品ですか?

2004、2005年がチョロチョロって感じで、2008年から2014年くらいの写真が、ほとんどです。

2005年から2008年までのブランクには、理由があるのですか?

もともと、モノクロメインでやっていて、何となくカラー写真にも興味をもって、プリントもしたら面白いかなって思ったんです。それで、ひとつをカラー、もう1台にモノクロのフィルムを入れて、2台のカメラで撮影し始めたのが、2004年の時期です。ただ、その半年後に、ゴールデン街で泥酔して、道端で寝ちゃったんですよね。そしたら、トラブルみたくなっちゃって。気がついたら、靴もカバンもなくて、何にもないんですよ。自分が悪いんだけど、ショックを受けるじゃないですか。それで、新しいカメラを2台も買えないから、1台だけ買って、モノクロを続けて、カラーを撮らなくなっちゃったんです。1冊目の写真集を出して、一区切りついたタイミングで、カラーも、もう1回やってみようかってことで、撮り出したのが2008年です。

そういう理由だったのですね(笑)。今回の写真集はカラーだけで構成されていますものね。

写真集の裏表紙になった写真は、カメラを無くす前に、撮っていた写真です。あとは、この写真もそうですね。

ちょうどガングロが流行った時期ですね。

普段はね、拾ってきた雑誌を古本として売っていた人ですね。このときは、なんでこれを売っていたのか、わからないですけどね。

また、これだけ多くの被写体を撮影するには、かなりの時間を要すると思います。週にどれくらい撮影にいかれてるんですか?

この時期は、割と自由業だったんで、カメラは常に持ち歩いて、なんかあれば撮ってました。ただ、毎日撮ってた、ともいえないです。2週間くらい、写真を撮ってないときもあって、そうなると、罪悪感を感じちゃうから。今は週4でアルバイトをしているので、休みの金曜と土曜は撮影して、日曜は暗室という流れが多い。ただ、街に出ても疲れて撮れない日もあります。それでも月曜から木曜は仕事で撮れないので、時間が限られているせいか、前よりは集中して、撮影できるようになったかな。

撮影に出かけるのは、やっぱり夕方からですか?

そうですね。最近は、撮っても深夜1時、2時くらいまでで、東京に出てくるときは、終電までとか、そんな感じです。本当は、終電過ぎてから夜が明けてきたくらいが、みんなおかしくなってるし、面白いんですよね。ただ、歳だから、自分の家で寝ないと疲れが残っちゃうし、体力がなくて、あんまり粘れなくなってきてるんで、昼も撮った方がいいなって思ってるんですけどね。もう20年くらいやってるから、飽きてくるし、自然光が入ると別の状況が入るんで、バリエーションにもなるんですが、やっぱり夜になっちゃうんですよね。

また、被写体との距離も不思議です。例えば、この上の写真の人は、すごくナチュラルでリラックスしています。

この人は知り合いなんですよ。これも、なんともいえない写真なんだけど、割といろんな人が反応してくれます。

知り合いの方を、ずっと追いかけて撮影することもあるんですか?

昔はありましたよ。ただ、長く撮ってると、大体決まった同じ角度になってきますからね。

星さんと被写体との距離感が、安定してくるんですよね?

そうそう。もしかしたら、そっから先に、新たな写真になるかもしれないけどね。だけど、例えば、自分が好きになった女の子とか撮ってるうちに、結局、撮ることを優先しちゃうから、そうするとうまくいかないんですよ。結婚していたときは、前の奥さんや子供の成長を撮っていたんだけど、やっぱり「いい加減にしてくれ」ってなってきちゃうし、結局別れちゃったから。今は、そういうパートナーみたいな人が、特にいないんだけど、あまり知り合いを撮らないように気をつけてます。

私生活と被写体、それぞれの距離感が難しくなるんですね?

そうですね。あとは、友達と普通に遊んでるときに撮ったりしたんですが、どうしてもね。友達だと、それ以上、追っかけちゃいけない場所も出てきちゃうし…。この上の写真の人も、もともとバンドマンで新宿に流れついてきて知り合ったんですよ。それで、店をやってたので通ってたら、そこに、なかなか可愛くて、いい感じの女の子がいて、僕も気に入っちゃって、つい口説いたりして仲良くなったんです。そしたら、この友達が「実は俺の女なんだ」って後から言いだして、「ふざけんなよ、最初から言えよな」って言いあいになって。結局、その彼女との関係もおかしくなって、そしたら、彼は精神的におかしくなっちゃって病院に入院したんです。さらに、その彼女が、もともと統合失調症という、すごく、きつい病気を持っている人だったんですが、自殺しちゃったんですよね。原因は、彼女が前に付き合っていた彼氏が、変なヤク中みたいなやつで、半分くらい殺されたような死に方だったんです。僕も好きだったし、写真なんか撮ってなければ、助けてあげられたかもしれない、とか、すごい悩んだりしたんですよね。でも、彼とは今でも付き合っていて、会えば写真を撮りますけど、そういう経験から、友達や知り合いは、被写体としてクールに突き放さなくてもいいのかなって思ってます。

難しい問題ですね。他にも知り合いの方の写真はあるんですか?

この上の写真は、同じ中学の後輩なんです。今でも現役なんですけど、忘年会の写真を撮りに来てくれって、兄貴分みたいな人に頼まれたときの写真です。

この写真は、知り合いでないと、なかなか撮れないし、世の中に出しづらい写真ですよね。

結局、行政が厳しいから、ちょっとダークな部分がある人は、みんな目立ちたくない。昔だったら「いいよ撮ってくれよ」って、雑誌とかに載って、目立ちたいっていうのがあるからね。ただ、最近は前よりも厳しくなってますよね。

なるほど。では、初めて会った人との撮影での距離感について聞きたいのですが、まず、どのように距離感を掴むんですか?

ほとんど、最初に声をかけて撮っています。

目線がきてる写真から、きてないものまで、様々ですよね。

撮るときは何も考えてないです。この写真は、見事なスピードで作業していて「すごいですね」って、声をかけたら、「いや仕事ですから」って返ってきて、「ちょっと写真撮っていいですか」って声かけたら、「いいよ」みたいな感じでした。あまりにも仕事っぷりが見事だったから、それを撮りたかったんですよね。

例えば、この方を撮影したときは、どういう風に撮影したんですか?

この写真を撮る数日前に、この人も含めて何人かの集団でいて「撮っていいですか」って声をかけたら、周りの人が「俺たちは嫌だけど、こいつだったらいいよ」って言ってくれて、この人は客引きで下っ端みたいな人だったんです。それで、客引してるところを、真っ正面からポートレートを撮ったんです。何枚か撮ったんですけど、イマイチだったんですが、別の日に、座ってタバコを吸ってたら、前から歩いてきて、しかも、ちょうど目も怪我してて、いきなり、前から、バチッて撮って「あっ俺ですよ、こないだの」って声をかけたんです。
結構そういう風に、いきなり、バチッて撮っちゃうときもあるんですけど、さっきの関内の話じゃないけど、別にモラルの問題でフェアじゃない、とは考えてないですけど、トラブルになったら、やっぱり、こっちが悪いしね。ただ、声をかけて撮ると、どうしても〈いい感じの写真〉、ポートレートっぽい写真になるんで。それで、あんま面白くないなって退屈したときに、ちょっとインチキな技、いきなり、バチッて撮っちゃったこともあったんです。でも、写ったものを観ると、意外と物足りない。自分は緊張してるんだけど、やっぱり1歩踏み込めてないんです。声をかけて、相手に許可をもらってから、撮ったものが、やっぱり、いいんですよね。

なるほど。ただ、星さんの写真は、単純に距離感が近い、という以上の、いわゆる〈いい感じの写真〉とは異なる何かが写ってると思います。

撮る側と撮られる側の利害が一致しているはずなんだけど、ちょっと微妙にズレてるシーンがあるんですよね。そういうのが、癖みたいなもので、自分の写真の面白さなのかなって。それに気づいたのが、写真を初めて間もない写真学校に通ってたころで、とにかく人が撮りたかったんですが、特別はっきりしたテーマがなかったんです。テーマを設定して、自分の頭で決めつけて、自分のなかで振りがあって「こういう人を撮ってます」って、みんなに知ってほしいんじゃないなって思ってました。だから、とりあえず、人に声をかけて、ポートレートでも、ただ立っているだけでも、とりあえず1000人撮ろう、撮っていくうちに、何か自分が撮りたいテーマがみつかるだろう、とひたすら撮影してました。
そのあと、撮った写真を先生に観せるためにセレクトしていたら、もちろん〈いい感じの写真〉も、いっぱいあったんですけど、目線は普通に来てるけど、何か微妙にズレているものがあって、それだけを選んでいくと、ちょっと写真が変なんですよね。先生が言うには、「被写体に惹かれて撮りたい、というよりも、君の本能の部分が、実は、ちょっとズレたものを求めてるんではないか」と、言われたことがあって、経験もあんまりなかったし、きちんと意思の疎通ができた〈いい感じの写真〉よりも、面白いのかなと思って、そういう距離感を狙うようになりましたね。

確かに、ただ単純に距離感を詰めれば撮れる、というだけではないですよね。

あと、僕は、もともと、すごい寂しがりやで、割と人に依存しちゃう感じなんです。女の人と付き合ったりしても、共依存関係になっちゃいがちなんですけど、「君は、人をすごい好きなんだけど、やっぱり、どっか、相入れない、孤独を愛するようなところが、本質的にあるから、それが、距離感として写ってる。その距離が、ちょっと悲しいけど、面白いとこだと思うよ」って言ってくれた人もいたんです。

ご自身の性分で孤独を愛するような部分があるのですか?

もちろん、普通に遊ぶ友達とかいるわけですけど、一方で、昔からウロウロするのが好きだったんです。全然知らないところに1人で行ってウロウロして、なんとなく空気を味わうとか、そういうのは癖として子供の頃からあったんです。横浜の端の住宅地で、何もない田舎町の出身なんですけど、昔は、駅前とかに、スナックがあったり、酔っ払いの親父が立ち飲み屋で1杯やっていたり、暴走族が溜まっていたり、ヤクザなんだか、わからないような人が、街で喧嘩したり、ザワザワしたものがあったんですよね。小学生のころから、そういう場所をウロウロしてました。

怪しい空気が漂う場所が、多かったですよね。

横浜の中心とか、東京だと、もっと大都会でしょ。母親が、たまたま東京で店をやっていたから、遊びに行く機会も多かったんですが、もちろん仕事をしてるから、「本屋や映画館でも行ってきなさい」とか言われるんですけど、「映画に行く」とか言いながら嘘ついて、1人で街をウロウロして過ごしてたんです。写真を始めてからは、もっとウロウロするのを、楽しめてますね。

星さんの写真は街に出ないと撮れませんもんね。街でウロウロする良い口実が写真だったんですね。

もともと、ウロウロしながら、いろんな人を観察して、頭の中で、自分が主役だったり、演出家だったりの体で、すぐに、物語にしたがるんですよね。誰しも、そういうところはあると思うんですけど、自分の場合は、その妄想の世界が、ちょっと極端だったんです。写真を始めるようになってからは、自分が主役だと仮定して、街を歩いていると、家出少女みたいな女の子が1人で佇んでいたりとか、別に家出少女じゃなくてもいいんですけど、自分の好みの子だったら、ちょっと頭のなかで、恋愛対象としてストーリーをつくって、この女の子はこういう子で、とか自分の想像した人物像と被写体を重ね合わせて、写真を撮っていたんです。それに、昔は、自分が想像した通りの物事が、街によくあったんですよ。ちょっと街が劇場っぽいというか、いろんな人がいるなっていうエネルギーがあったんですよね。

街を劇場に見立て、写る人を自分の想像に当てはめていたのですね。

写る人に対して、勝手に、何か決めつけたものがあって、それを求めて撮ってたんだけど、実は相手にとっては、全然違うことだったりとか…。そうすると、写っているのは、自分の妄想の人物とは、微妙に一致していなかったりするから、それが面白さだったりするんですよね。やっているうちに、自分の想像通りっていうのは、そんなに面白くないんだなって、わかっていくようになったんです。だから、エッジが立っている人に声をかけるんだけど、ドンドン自分の想像とは違う、色んなズレを狙っていくようになったんです。最近は、自分の写真を理解してきて、街を歩いていても、あんまり妄想しなくなりましたけどね。

では、寂しがりやという性分から恋人や友達に共依存してしまう一方で、1人でいることも大事な時間だったんですね。そんな星さん自身の矛盾だったり混沌が、被写体との距離として、写真に写ってるということですね。

ここまで、幼少期の話や写真を始めたころの話を聞きましたが、そもそも、街を徘徊するのと写真が結びつくきっかけは、なんだったんですか?

具体的なきっかけは、僕が25歳くらいのときに、カジノ関係の仕事をしてたんですけど、お金もいっぱい持っていて、遊びまくっていたんですが、そんな生活をしていると、堅実で落ち着いた生活をしている友達は、相手にしてくれないじゃないですか。そんなときに、15歳くらいからの同級生の友達で、今ちょっと破門になっちゃたんですけど、結構若くして、組織のNo2、若頭に出世したヤクザの友達と、その時期一緒につるんでたんです。そしたら遊んでいるうちにドンドン、ヤクザの世界に引き込まれそうになって、友達だけど、兄貴みたいな関係になって、相手も寂しいから、自然と巻き込んでくるようになってしまって…。
結局、ヤクザって、薬を売ったり、人から恐喝したり、全部その組織のためにやるわけじゃないですか。「なんなんだ、これよ、奴隷じゃねえかよ?」って気持ちになるんです。見た目はカッコよくしてるけど、正直キツすぎる。でも、彼はヤクザだったから、組織を裏切るわけにはいかないし、きついけど、逃げるわけにはいかない。で、こっちは、ヤクザになったら、絶対に地獄の日々になるってわかってるし、ヤクザになるつもりもないから、逃げたいけど、その彼からは友達だから逃げたくない。だいたい、みんな、そこで、ギブアップしてヤクザになっちゃうんですよ。そういうキツイ状況に、非常に参ってました。いま思い返すと、ただ粋がっていただけで、ヤクザになる覚悟も根性もなかっただけなんですけどね。
だから、この状況から逃げ出すには、自分が何かひとつ、これがやりたいってもので、一人前になるしかないなって思ったんです。自分はどっか表現するのが好きだったから、映画とかやりたいなって思うようになったんです。言ってることは、わかりづらいかもしれないけど、何となくはわかるでしょ?

はい。すごく状況が伝わってきます。

そう思い始めていたときに、チンケなことで逮捕されちゃって、刑務所に入ってたんですけど、それがチャンスだったんですよね。その時期にシナリオを書いたりとか、本を読んで勉強し始めたんです。映画について考えていくうちに、刑務所にいると、いろんなことを思い出したりするんですよ。写真だと、それを、そのままの事実として残せるなと。変な話だけど、映画だと、例えば、そのヤクザの友達の話だとしたら、彼の話をモデルに物語を考えて、違う人に演じてもらわなければならないけど、写真だったら、彼のことを、そのまま役者にできる。しかも、写真って、誰でもできるでしょ? だから出てからも、映画を観て、シナリオの丸写しなどして映画の勉強をしていたんですけど、いつの間にか写真の方にハマっちゃったんです。

それが写真を始めるきっかけだったのですね。写真を始めてからは、現実のリアルな人を主役にしながら、自分の想像とは異なる部分を求めていくようになるのですね。つまり、先ほどの話にも出ましたが、何が起こるかわからない予期せぬ、怪しさに惹かれていくってことですかね?

怪しさをどう説明していいか、わからないけど、自然発生した人間の血みたいな、そういう魅力ですかね。

教育され管理されてつくられてないというか、感覚的に生きてる人というか、本来の人間が持っているものみたいな部分ですか?

本来かどうかはわからないけど、無駄なオーラを出しているとか、粋がってたりとか、決して世の中的には器用じゃないかもしれないけど、謎の輝きを放っている、そういう自己主張みたいなエネルギーが好きなんですよね。

そういう人への憧れもあるのですか?

そういうのもあるんでしょうね。

自分に正直でありたいって願いは強いですか?

なくはないですね。写真って誰でもできるもんだけど、僕なんか特に、ちょっとエッジが立った人を被写体に選んじゃうんだけど、自分が等身大じゃないと定着しないなって思ってます。自分が生きている立ち位置と、撮りたいものが、ちゃんと噛み合ってないと、無理が出るんだなって実感はあります。

また、ヤクザも女装している人も綺麗な女性も、みんな個性は異なるんですが、星さんの写真は、同じ目線というか、全て等価というか、それぞれの人の魅力を引き出しながら、星さんの目線は同じというか…。とても個性が強く、職業や性別や年齢など、様々なのですが、すべて、同じように魅力的、と捉えているように感じます。

僕が写真を選んでるからっていうのもありますからね。それに、変に際どすぎる方向に捉えて欲しくないな、とも思ってます。だから、自分の目線がある程度、安定しないといけない。そうしないと、結局、変な人を撮ってるだけじゃんってなっちゃいますからね。

等身大であろうとするとともに、客観性も持っていようとされてるんですね。

そうですね。あとは、ちょっと自分が、モテたいとか、お金欲しいとか、威張りたいとか、みんな、あるじゃないですか? ちょっと金が入って、オシャレして、例えば、ツンデレ系OLみたいな子と付き合いたいな、とか、そういう方向に近づいているときって、やっぱり、写る人と向き合えないんですよね。だから、声をかけても断られちゃう。もっと自分が、どうしようもないくらい、とにかく写真を撮るって状態、ノッているときっていうのは、自分も街と同化しているから、普通は撮れないはずの人が撮れたりするんです。常に、自分の状態を一定にキープしてなきゃいけないっていうか。ただ、今は、街自体が、そうじゃなくなってきてるから、難しくなってるんですよね。

街のリズムや躍動と、星さん自身が同化しないと、撮れないのですね。

写真家として、ちょっと偉そうにしたり、認められたいって気持ちが、崩れてないときは、なかなか、納得する写真が撮れないんです。逆に、撮影することで、崩してもらえるケースもあるんですよね。相手が「撮っていいですよ」って言った瞬間に、また、写真にのめり込んだ状態に戻れるときもあります。

被写体の魅力に、魅了されるのですね。

相手に教えられることも、多々あります。

星さんの状態が、そのまま写真に反映されるんですね?

それも言ってみたら、そんなに極端な、ゼロか100かって話じゃないですけどね。あとは、街で撮るのは、正直、キリがない作業だったりするんですよ。やっているうちに、街の雰囲気とか、世の中のことも、ある程度みえてくるでしょ。建物が変わって、街がキレイになったり、つまんなくなっていく感じだとか。だけど、それは、誰かが意図してやっているわけで、それを、どうして、そうやっているのか、とか、考えるようになるじゃないですか。例えば、オリンピックのことにしても、オリンピックのために街をキレイにするのっておかしいな話じゃないですか? お金が儲かっている人はいいかもしれないけど、神経質になりすぎですよね。じゃ、なんでオリンピックをやるんだとか、そういう背景のこととか考えると、吐きそうな話ばっかりじゃないですか。スポーツマン精神を否定する気はないけど、みんな、それで、バカみたいに沸き上がったり…。震災のときだって、結局は自分が良い気持ちになりたいからって「頑張ろう日本」なんていってるわけで、そんな簡単に「絆」なんていってる場合の問題じゃないだろうって。でも、実際の現場で被災した人は、忘れるしかないしね。前向くしかないから、そんなネガティブなことばっか、関係ない自分が言っちゃいけないんだけど、でも、そういうことってあるなって。メインストリームは、ずっと変わらず、そんなふうに世の中は成り立っているわけですよね。ただ一方で、もっとひどい世の中になったら、写真なんて撮っていて、生きてられるのか、そんな余裕もないかもしれないからね。なんとも言えないんですよね。

街や社会が変化していくことで、星さん自身の目線も変化していくから、撮りたいものが、尽きないのですね。

あと、普通の飲食店で働くようになったから、そうすると、街をみつめる目線が、違うというか、意識が大分変わった部分があります。それによって、それまでイマイチだって思っていた横浜での撮影が、随分立ってきたんです。働いてるから、撮る時間が限られているっていうのもあるだろうし、自分が、普通に働くことで、街と同化できるっていうのもあるかもしれないですね。自分もこの社会の1人っていうか、そういうのを、より強く認識してるのかもしれないです。それによって、写真が、また変わってきています。

プロフィール
星玄人(ほしはると)
1970年神奈川県生まれ。2000年写真研究所を卒業し、作家としての活動を開始する。2018年、この記事で紹介した2冊目の写真集『口笛』をリリース。この写真集で、第30回、写真の会賞を受賞。また、他の著書には、2007年自身初となる写真集『街の火』がある。新宿にあるギャラリー、サードディストリクトギャラリーを中心に定期的に写真展も開催している。

女性とは〈コスプレ〉でしかない

女性の社会的地位、格差についての議論が増えるのと同時に、〈女性が働きやすい職場〉〈女性が輝ける社会〉〈女性がつくる未来〉を目指し、女性を応援する制度や価値観を生みだそうとする動きが社会全体に広がっている。だが、ここでいう〈女性〉とは、果たしてどんな女性なのか。女性に関する問題について真剣に考えている女性、考えていない女性、そんなのどうでもいい女性、それどころじゃない女性、自分にとって都合のいい現状にただあぐらをかいている女性。世の中にはいろんな女性がいるのに、〈女性〉とひとくくりにされたまま、「女性はこうあるべきだ」「女性ガンバレ」と応援されてもピンとこない。

「いろんな女性がいるんだから、〈女性〉とひとくくりにしないでください!」と社会に主張する気は全くないし、そんなことを訴えても何にもならない。それよりも、まず、当事者である私たち女性ひとりひとりが「私にとって〈女性〉とは何なのか」本人独自の考えを持つべきではないのか。女性が100人いたら、100通りの答えを知りたい。「あなたにとって〈女性〉とは?」

美奈(30代)

「〈女性〉とは」と考えたことはありますか?

結構ありますよ。世の中の色々なものが〈男性〉〈女性〉で規定されているし、就職して社会に出たとき、世の中の異性愛社会っぷりに衝撃を受けましたから。

美奈さんは、異性愛者ではないということですか?

中学生の頃から、女の子とチューしたりはしていました。でも、自身のセクシャリティとは結びついていなかった。中学生、高校生までは彼氏もいたので、自分は異性愛者だと思っていたんです。親友に「女の子が好きなんでしょ」と指摘されてはじめて、私は女の子のことが好きなんだな、と気づきました。

女性として女性が好きというのは、どういう感覚なんでしょうか。ドキドキして、一緒にいたくて、触れたくて、ヤりたい、というような、異性に感じる好意と同じですか?

それで合ってます。女性の触り心地、匂い、仕草全部を可愛いと感じるし、キュンキュンする気持ちは男性に抱くのと同じです。

初めて女性とお付き合いをしたのはいつですか?

大学生ですね。当時、ヴィジュアル系バンドの全盛期で、いわゆるバンギャが大学にもたくさんいたんです。そのなかには、女の子同士のカップルもわりといました。私もヴィジュアル系のコスプレや男装をするのが好きで、大学では4人くらいの女の子と付き合いました。

男装をする=男性になりたい、というわけではないんですよね?

生物学的に男性になりたいわけではないんですが、当時は、モテたい、かっこよくなりたい、男になりたいという欲望がミックスされているような状態でした。

そういうコミュニティから出たら、異性愛が普通とされる社会で驚いたんですね?

そうです。ずっと女子校で、女の子同士の身体接触に抵抗がない、といったら変だけど、そういう環境でしたからね。男性と付き合ったほうがいいかな、と就職後にふたりの男性と付き合いましたけど、やっぱりなにか違うなと。それ以降は、女性と付き合って、少し嫌になったら男性と付き合ってと、行ったり来たりするようになりました。

いわゆるバイセクシャルということですか?

そうですね。〈男ともヤれるレズ〉かな。

どういう意味ですか?

だって男性とヤるのは簡単じゃん。「私レズだから付き合わないけど、セックスだけだったら」と声をかけたら、絶対のってくるし。

快楽を求めて、男性ともセックスをするということですか?

いや、そんなにすごいヤリマンっていうほど、誰とでもというわけではないです。基本的に気持ちいいことが好きなので、もっとすごい気持ちよさがあるのではないか、この先にどんな快感が待っているのかと、快楽を探求したいんです。

いっしょに快楽を探求できるひとであれば、性別は関係ないんですね。

そうです。ただ、守備範囲が広いと誤解されることがあります。誰でもいける、というバイももちろんいますけど、私は違う。例えば、タイプな相手が10人並んでいるとするじゃないですか。私はバイだからといって、並んでいる人数が増えるわけではなくて、その10人のなかに男性と女性が混じっているような感じです。いろんなひととヤりたいわけじゃなくて、気持ち良さを極めたいだけなんです。

快楽を追求するためのグッズたち

現在、お付き合いをしている相手はいますか?

いないです。〈付き合う〉というのは非常に社会的な概念で、パートナーシップを固定するものじゃないですか。そうなってしまうと快楽を追求しづらいので、今はあまり、特定の誰かと付き合うことは考えてないんです。

これまでお付き合いをしてきた相手は、女性と男性どちらが多いですか?

多分、女性のほうが多いかな。自覚してなかったんですけど、男性よりも女性と付き合っているときのほうが楽そうだし自然体だ、と妹に指摘されたんです。男性と付き合っているときは、なんか無理してるって。確かに、相手が女性だったら、男ウケを意識せずに自分の好みを優先した服を選んだりお化粧ができるし、嫌なことは嫌だとはっきりいえるし。いわれてみれば、そうかもしれないなと。

男性が相手だと、遠慮してしまったり、合わせなきゃ、という意識が働いてしまうということですか?

そういう意識があるのかもしれないです。でもそれは、私と父親との関係のせいだと思います。私の父は、イケメンでお金持ちで、父の周りにはいつもひとがたくさんいました。でも「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ」みたいなことをポロっと口に出してしまうようなひとでもあったんです。私はそれがすごく悔しくて、いつか絶対に自立して、金銭的に母を支えられるようになりたいと考えていました。なので、私にとって父を含む男性は、憧れつつ憎む対象というか、ずっと〈父に勝つ〉のを生きるモチベーションにしていたんです。

最近までということは、お父さんへの思いは解消されたんですか?

父がビジネスに失敗して、家が抵当にとられたのをきっかけに、私が新たに実家を買いました。それまでは、父は男性だからどう頑張っても越えられない、と思っていた部分もあったんですけど、家を買ったことで父への憎しみは完全に消えましたね。「勝った」から。子どもが同性の親に対して、越えたいという気持ちを抱くケースはあるみたいなので、私はそのあたりが少し男性っぽいのかもしれません。

自分のなかに、男性っぽさを感じるときがあるんですね。

現在の日本は、まだまだ男性社会だと感じるし、女性が活躍できる社会といったって、結局〈男性モード〉じゃないと、〈男性並み〉じゃないと認められないじゃないですか。男性並みに働くことプラス、家事育児も求められる。私は仕事が好きだし、男性と同じ給料をもらっているんだから、男性並みに働きたいという気持ちは強いです。

働く女性を応援する社会の動きについてはどう思いますか? 男性並みに働きたいと考えたとき、応援されること自体はラッキーなことだと感じますか?

うーん。でも、応援されないと上にあがれない状況があるんだよな、というところは引っかかりますよね。今の社会は、女性が不利益を受けることが未だにあるから「女性頑張れ」と応援していかなきゃいけない状況もあるんだろう、とは理解しています。でも、私はどちらかといえば、女性がもっと頑張るより、男性があんまり頑張らなくてもいい社会になるのが良いんじゃないかと。女性が家事育児をこなしながら、男性並みに働くのは限界がありますから。

どうしたら、男性があまり頑張らなくてもよくなると考えていますか?

すぐには無理ですよね。長期的な話になりますけど、世代交代に期待しているかな。「ゆとり世代が飲み会に行かなくなった」とか「さとり世代が仕事よりも家庭を大事にするようになっている」とかきくと、いつか、男性がゆるく働いても生活できるような社会になるんじゃないかって。女性がもっと働きやすい社会になるには、男性のほうが、生きかたや働きかたを自由に選択できるような社会にならないと変わらないはずです。

現在は、男女の性差がないようなお仕事をされているんですか?

仕事上、ケアが必要とされる場面があるので、そういったときは〈女性性〉で相手に接することが多いです。〈男性性〉を全面に出してマッチョに仕事するときと、〈女性性〉を使って相手をケアする仕事をするときの両方があるので、場面によって使い分けてます。男性性、女性性の両方が活かされる仕事は、すごく自分に合ってる気がします。

男装したり、男性、女性どちらとも付き合ったり、性を行き来してますね。

そうなのかもしれないです。生物学的には女性だし、自分の性別に違和感はないんですけどね。男装もそうですけど、女性の格好をして出かけるのも、なんとなく女装している気がしてくるんです。「あなたにとって〈女性〉とは」って、私にとっては〈コスプレ〉でしかないんですよね。うまく利用するものでしかない。女性だから出来ること、男性だから出来ること両方やりたいし、全部経験したいから、女性とはコスプレだと捉えることによって、どう頑張っても絶対になれない〈男性〉という存在に近づきたいのかもしれない。だってどう頑張っても、精子を出すことだけは、唯一できないから。

そうやって、男性と女性のあいだを行ったり来たりしていると、「本当の自分とは何なのか?」と悩んだりしませんか?

若い頃は自分のことなんて全然わからなくて、自分のことを異性愛者だと思った時期もあったし、レズビアンだと認識した時期もありました。でも、どんな自分もすべて自分でしかないんですよね。どんどん自分のセクシャリティが広がっていくんです。将来的にはもっと広がるのかもしれないし、逆に狭まるのかもしれない。〈自分のセクシャリティがなんなのか〉なんて、私は一生わからないんじゃないかな。そういう自分の変化  を楽しんでます。

職場では、自身のセクシャリティを伝えていますか?

私の仕事は教育関係なんです。職場の後輩には、性的マイノリティの子どもが近くにいるかもしれないよ、と認識させる意味で、伝えるようにしています。

でも、子どもたちには伝えていません。伝えること自体に抵抗はないけれど、やっぱり保護者からのバッシングが怖いし、セクシャリティをパーソナリティの判断材料にされたくないから。本当は、性的マイノリティの大人たちが権利を保証されて仕事をしている姿を子どもたちにみせることが、当事者の子どもたちに希望を与えるんじゃないか、とも考えるんですけどね。

子どもたちには、どんなことを教えているんですか?

専門の科目以外に、性教育も担当しています。具体的には、リベンジポルノや、デートDV、セクシャルマイノリティの人権などです。ほかに子どもたちが気になることがあれば、個人的にききにきてもらって。でももっと、子どもたちに教えたいことがいっぱいあるんです。

子どもたちに教えたいこと、とは何ですか?

性教育といっても、セックスのことだけを指しているのではなくて、自分の身体について知るとか、ここは他人に触らせないとか、パートナーとどう関係性を築いていけばいいのかとか、そういう教育が必要なはずなんですよ。友達に暴力をふるってはいけないというのは当たり前にみんな理解しているのに、カップルになったとたん、相手を束縛したりしてしまうのは、パートナーシップをきちんと学ぶ機会がないからです。そういうことは、ちゃんと伝えていきたいです。ただ、〈正しい性〉と〈エロい性〉のあいだでの葛藤はあります。

どんな葛藤ですか?

エロいもの、気持ち良いものは、罪悪感や背徳感、禁断感があったほうが絶対燃えるんです。性というものは、気持ちいいものだし幸せなものだし、それぞれのセクシャリティを認めていこうという社会の動きは非常にいいことです。でも、それぞれの性が全部認められてしまったら、同性間のセックスの禁断感がなくなるというか、エロみがなくなるなって。社会における平等は実現してほしいけど、エロに関しては支配する側される側、欲情する側される側、不平等なほうがエロいし。

ものすごい葛藤ですね。教育関係者として、そして快楽の探求者として、今後の目標を教えてください。

 自身のセクシャリティを受け入れたことで、自分の性について、これからの生きかたについて、周囲のひととの関係についてみつめることができたし、父にも勝った。今、生活への不満や生きづらさやが全くないんです。教育関係者としては、もっと性教育がスムーズにできるような世の中にするために、性教育を教えられる大人を育成していけたらと。プライベートでは、職を失わない程度に快楽を探求して、いつか宇宙と繋がって素晴らしいオーガズムを得て、そのまま死ねたら最高かな。

 

地域密着型タフネスショップ・ガイド:地酒専門創り酒屋かがた屋酒店(西小山)

初めての駅で降りる。初めての商店街を歩く。牛丼、ハンバーガー、ラーメン、フライドチキン、カレー、アイス、コーヒー、弁当、焼肉、レンタルDVD、カラオケ、ドラッグストア、マッサージ、100均、1000円カット、本屋、家電量販店、そしてコンビニ。おなじみのチェーン店があるとホッとする。その数で街の優劣をつけてしまう。おなじみが見当たらなければ、〈なにも無い街〉と決めつけてしまう。ああ、そんな基準で街を評価している自分がいる。

気がつけば、どこも似たり寄ったりの街並みになった。店は増えるけど、そこには目新しさ、物珍しさしか存在しない。街と歩んできた時間なんてどこにもない。〈街は生きている〉というけれど、ベタなロゴが増え続ける状況が、〈生きている〉ってことなのだろうか。

いや、違う。それは私たちが、オギャーしたときの街と仲良くしていないだけ。ベタロゴ店に甘えているだけなのだ。時代のシステムに対応しながらも、束の間の時流なんぞには惑わされず、そのときのアイデアとパワーで、街を生きるタフネスな人たちこそが、〈生きている街〉をつくってきた、そしてつくっているのだ。そこを忘れてはいけない。

地域に根ざし、地域のみんなに愛される強靭なお店に入ってみよう。そして、現在も街と共に生きている人に会ってみよう。

東京都品川区西小山。隣の駅では、地上40階、142メートルの超高層ビルが完成間近。更にワチャワチャと〈ムサコ論争〉も繰り広げられているが、こちらでは、西国分寺、西恋ヶ窪、西小岩、西糀谷との〈ニシコ論争〉は勃発していない。午前中の駅前広場には、おじいさんと犬とラジオ。おじいさんとスポニチとビール。おばあさんが富士そばでビール。とても穏やかな街だ。

「僕は、酒屋の長女と結婚したので、15年前から酒屋になりました」

そう語るのは、昭和3年創業、今年で90周年を迎える〈地酒専門創り酒屋 かがた屋酒店〉の直井一成氏。この職に就くまでは、「お酒が無くても大丈夫」「フツーの居酒屋に行く程度」「お酒買うときはコンビニ」というサラリーマンだったそうだ。

今でこそ、〈街の普通の酒屋さん〉から脱却して、店舗に珍しい地酒を置いたり、内装を真っ白にしたり、利酒コーナーを設置したり、「カラスミと一緒にクイッ!」なんてバーを併設するオシャレなお店も増えているが、かがた屋酒店は、40年ほど前から、全国の蔵元さんをパートナーにして、独自の品揃えで店舗を経営をしてきた。

「社長に先見の明がありましたね。実際にコンビニが生まれて、コンビニフランチャイズする酒屋さんも出てきた。更に規制緩和で、どこでもお酒が置けるようになった。スーパーでも、大型家電店でも、ネットでもお酒は買えるから、普通の酒屋さんは元より、コンビニも潰れる時代になったわけです。そんな負のスパイラルに陥らないように、40年前に店のスタイルを変えたんです」

お酒を販売するには、〈酒類販売業免許〉を取得しなければならない。規制緩和以前は、免許の取得に、酒屋と酒屋のあいだにある〈距離基準〉や、1店舗あたりの〈人口基準〉などの規制があった。

「昔は、新規出店を希望しても、コンパスで地図上に円を描き、そのなかに酒屋さんが存在していたらダメだったんですよ。簡単に開業はできなかったんです」

要するに酒屋は、お上に守られていた。酒屋をやっていれば安泰だったので、他業種の小売店からも羨望の眼差しを受けていたという。仲手川良雄(中井貴一)in『ふぞろいの林檎たち』の仲屋商店も、嫁姑問題こそあれど、それなりの暮らしをしていたに違いない。貴一は私立大学に入れてもらえたわけだし。しかし、1998年に〈規制緩和推進3カ年計画〉が閣議決定してからは、徐々に規制は緩くなり、2006年には完全自由化へ。申請すれば、誰もが酒屋をオープンできるようになった。

「現在は、セブンイレブンも、ローソンも、サミットも、ウチと同じ免許を持っているわけです。そんな状況のなかで、普通の〈○○酒店〉というスタンスでやってたいら、どう考えても生き延びられないじゃないですか」

それは数字にも現われている。1985年の業態別小売数量は、一般酒屋が92%を占めていたが、2017年には13%と激減。逆に、スーパーマーケット、コンビニ、デパート、ドラッグストア、ディスカウントストアなどのシェアを合計すると、70%を超えた。更にインターネットも猛襲。酒類販売業免許のうち、通販が可能な〈通信販売酒類小売業免許〉では、大手メーカー系ビールなどを取り扱えないなか、アマゾンを筆頭とする大手ECサイトは、〈法の盲点〉を見出した。昭和時代の酒類免許には、通販についての区分が無かったため、大手ECサイトは​〈旧・酒類小売免許〉を持つ酒屋を買収し、名義変更酒販免許の場所を移転することで、インターネットでも〈スーパードライ〉やら〈一番搾り〉やら〈氷結〉やらの販売を開始した。どんどんと街の酒屋さんは、窮地に追い込まれていったのだ。かくいう自分も、父の日にはアマゾンで〈本格焼酎 男の勲章 / オリジナルグラスセット・メッセージカード付き〉を手配した。スマホでポチッと『いつもありがとう。これからもお元気で』の時代なのだ。貴一の仲屋商店は、今どうなっているのだろうか。

このような状況のなかで、かがた屋酒店もインターネットによる通信販売を2年ほど前から始めた。明らかに後発組だが、これが一筋縄ではいかないスタイルなのだ。いつでもどこでも購入できない仕組み。なぜなら、実店舗営業時間中のネットショップは絶賛閉店中なのだ。お店が閉まっている20:00〜10:00のあいだと、定休日の水曜しか、スマホをポチッとできない。

「正直申しまして、ネットショップをやらなくても、実店舗の業務だけで充分回っております。それでも、なぜ始めたかというと、インターネットでの販売をこの業界においてちょっと正当化したかったんですね」

〈この業界〉とは、直接お酒を取引している各地の蔵元さんとのつながり。「なるべく手売りしてください」「インターネット販売はしないでください」この業界は、そんな造り手さんの意向が強かったという。

「ニュースなどでご存知でしょうが、本当に世の中は〈酒離れ〉しているんです。特に日本酒は厳しく、決して良い状況ではありません。それでも『買える店まで行ってください』っていうような風潮が業界全体で多いんですよ。『もっと日本酒を飲んで欲しい』『若い人にも飲んで欲しい』と、新しい飲み手の創出を訴えながら、『送ります』じゃなくて、『あの店にありますから、電車に乗って行ってください』っていうのは、無理があると思うんです」

日本酒の消費量は、40年以上にもわたって低下し続けている。昭和48年(1973年)の1,766,000キロリットルをピークに、平成27年(2015年)には556,000キロリットルと、約70%も減少。酒類全体が落ちているとはいえ、ビールは2,666,000キロリットル、〈第3のビール〉であるリキュールも2,034,000キロリットル(共に2015年度調査)がゴクゴクされているのだから、日本酒は相当厳しい。

「もちろん造り手さんの想いもわかります。私たちも店に来ていただいたほうが、お客さんに合ったお酒をおすすめできるわけですからね。でも、同時にお客さんの気持ちもわかる。以前、若いご夫婦がウチで試飲されまして、『おいしいね、買って帰ろう』となったのですが、四合瓶ですら、持って歩きたくないという空気が、おふたりからメラメラ出ていたわけですよ。ええ、一升瓶なんてとんでもない(笑)。私たちの商品って、〈重い〉〈割れる〉〈格好悪い〉と、3つ揃っているんです。特に女性が一升瓶を抱えて、電車に乗るなんてありえない。だったら、ピンポーンって、玄関まで持ってきて欲しいじゃないですか。そこで、それぞれの立場を考えて、〈私たちはなにができるのか?〉と検討した結果、現在のような形でのネット販売を始めたんです。実店舗が開いていない時間だけネット販売をする。実店舗が〈かがた屋酒店〉、ネット販売が〈かがた夜酒店〉。ふたつの店が合わさって365日24時間営業。いい落としどころだなって(笑)。そして、このスタイルを始めるとき、スタッフにもいいました。『かがた屋酒店もネットを始めたんだ。できればやらないで欲しかったな』というような声が蔵元さんから届くかもしれない。でも自信を持って答えようと。『インターネットを始めたことにより、店はもっと盛り上がりますし、そういう志でやっています。来店人数を増やすためにネットをやっているんです』って。実際にお客さんは増えていますよ」

かがた屋酒店にとってインターネット販売は、店で売る導線のいち部だという。ひとつ具体例を挙げるなら、これまた厄介なんだけど最高にクールなポイント制。店頭でも、ネットでも、購買ごとにポイントは加算されるが、かがた屋酒店の場合、たまったポイントは、お店でしか使用できない。それも〈1000ポイント分値引き!〉とか〈もう1本サービス!〉なんて甘いモンじゃなく、手に入るのは、〈品薄 / 限定酒を購入できる権利〉。お酒をもらえるんじゃなくて、買える権利だ。ジャニーズの先行チケットよりも、敷居は高いかもしれない。

「みなさんが欲しがる数少ない銘柄もあります。そういうのはネットではなく、店頭のみに置いていまして、ポイントでそれが買える権利をお渡しているんです。よく勘違いされるのですが、値引きもプレゼントもいたしません(笑)」

そのほか、〈主催の試飲会 / 勉強会など、イベントへの入場券 / 優待券〉や、T シャツなどの〈オリジナルグッズ〉とか、足を運ばないと味わえない刺激的なブツが、ポイントでゲッドできる。T カードじゃ入手できないブツばかりだ。ここにもその理由があった。

「大前提として、ウチは安売りとか値引きを一切しておりません。ただ地酒は、定価でもオープンプライスでもなく、メーカーからの希望小売価格なので、本来は、小売店の企業努力があれば、いくらで売ってもいいんですよ。ただ、地酒でいうと、昔から『価値のある物の価値を下げたくない』という考えかたが根底にあるんです。それは蔵元との約束事みたいなものなんです。もちろん蔵元も『必ず希望小売価格で売ってください』とはいえません。独占禁止法にあたってしまいますからね。そこで、私たちも、日本の文化である日本酒を、しっかりした価値観を持って伝えるように努めているんです。『希望小売価格を尊重して、お酒の価値が下がらないようにしてください』っていう蔵元さんからのメッセージを感じているからこそ、この値段を守っている。地酒を安売りのスパイラルに陥らないようにしなくてはならないんです」

かがた屋酒店からはどんどん出てくる。そのアイデアは尽きることがない。ホームページに連載されているシリーズ企画『今週の晩酌酒』では、様々なお酒とそれにピッタリな肴を毎回紹介。〈キャンプ場の巻〉なんてのもある。東野と岡村がその場にいてもおかしくない。

「キャンプネタが続くと、毎週いっているように思われますが、酒をドカっと持っていって、3、4回分くらいの記事をストックします。この酒に合うピザは? 魚は? 夜は焚き火とチーズにしよう! とか(笑)」

更に『SAKEディプロマへの道』なんてコーナーも。そこでは、日本ソムリエ協会が主宰する〈日本酒・焼酎に特化した認定制度〉に合格するために作成した独自の問題集を掲載している。立派な〈酒博士〉を生み出すため、人材の育成にも余念がない。かがた屋酒店がつくった〈酒の赤本〉だ。

「いえいえ、そんなに大それたことではありません(笑)。ただ、このSAKEディプロマには、ワインソムリエの試験みたいな過去問題が存在しなかったんですね。問題難民の受験者がたくさんいると思ったので、毎週5問ずつテストをつくったんです。それが好評でした。ちなみにこの試験、1次は筆記なのですが、2次はテイスティングなんです。そこで、〈2次試験対策セット〉をつくりました。このお酒で勉強しましょうって、独自にお酒のセットをつくったら、コレが良く売れました。やはり誰もやっていないことを最初にやるって面白いですね(笑)」

直井氏は現在、ワインスクールで日本酒講師も勤めている。15年前は、お酒が無くても大丈夫な人種だったのに。

「教える仕事っていうのは、最終的には自分の力になります。授業のために準備をして、資料を作成したり。結局それは、自分のものになるんですね。僕がお酒を造っているわけではありません。造っている人が1番詳しいんです。でも私たちは、その情報を的確に伝えていきたいと考えているんです」

ネットショップが閉店すると同時に、実店舗が開店する朝10時。今日も店内は慌ただしくスタート。ゴロンする猫を跳び越えながら、たくさんスタッフさんたちが飲食店、そして地元・西小山の人たちに納品するお酒の準備に追われている。

「地元のお客さんには依怙贔屓しています。半径500メートルに住んでらっしゃるかたには配達していますから。もちろん無料です。地元に住んでいらしても、まだまだウチは認知されていないと思うんです。ですから、配達がきっかけになって、店に来て頂けたらと考えています。うちが頑張って、海外で販売しても、かがた屋酒店という店のファンになってもらうことは難しい。やはりそこには距離があるんですよ。顧客になってくださったら、ずっとそうあり続けてくださるのが、この辺のみなさんなのです」

伝統と文化を守りながら、未来に向かって日本酒を届け続ける〈地酒専門創り酒屋 かがた屋酒店〉。自らお酒は〈造って〉いないが、確実にかがた屋酒店は、お酒と蔵元さんとお客さんを繋ぐ素敵な生活を〈創って〉いる。お酒が生み出す素晴らしい空間を伝えているのだ。

さて。かがた屋酒店の次の一手はなんだろう? 〈利田屋大學〉なんてのも、ときどきやっているようだが。いよいよ事業の多角化に突入か?

「いえいえ、『お酒っておいしいよね』って話をするだけです(笑)。それに、なにも考えてないです。5年先、10年先なんて、恥ずかしながらお答えできませんよ。未来とか夢を語れないのが僕の弱点です(笑)。でも、ひとついえるとしたら、スタッフにずっと居続けて欲しいってことだけです。『スタッフ多いですね』とか、『若い人多いですね』なんて、御言葉をいただくのですが、その体制がずっと続くような会社でありたい。そのためには、今と違うなにかを色々やっていかないといけませんね。働く場所として、魅力的に映る職場でありたいです」

地酒専門創り酒屋 かがた屋酒店
東京都品川区小山5-19-15
営業時間:10:00~20:00 定休日:水曜
TEL:03-3781-7005

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地域密着型タフネスショップ・ガイド①:おもちゃのマミー(自由が丘)

地域密着型タフネスショップ・ガイド②:あきもとでんき(笹塚)

Who Are You?:サミエルさん (37歳): ミュージシャン

コンビニで、タンメンを温めてもらっていました。なんとなく、「言うような気がする〜、言うような気がする〜」って思っていたら、本当に言われました。「お待たせしました、タンタン麺をお待ちのお客様〜」確かに、タンタンの方がリズムとかバランスとかビートがいいですよね。可愛い店員さんでした。

日々の生活の中で、私たちはたくさんの人たちとすれ違います。でもそんなすれ違った人たちの人生や生活を知る術なんて到底ありません。でも私も、あなたも、すれ違った人たちも、毎日を毎日過ごしています。これまでの毎日、そしてこれからの毎日。なにがあったのかな。なにが起るのかな。なにをしようとしているのかな。…気になりません?そんなすれ違った人たちにお話を聞いて参ります。

サミエル(さみえる)さん (37歳): ミュージシャン  

サミエルさん、本日は、よろしくお願いします。

はい、よろしくお願いします。

サミエルさん、お国はどちらですか?

米国です。ボストン生まれのメイン州育ちです。

本名は〈サミエル〉さんじゃないんですよね?

はい。本当は、サミュエル・ジョンソン・リリーです。サミエルは芸名です。

コーネリアスとか、ハリウッドザコシショウ​みたいな感じですか?

そう、それですね。はい(笑)。

芸名ということは、芸をやられていると。どんなご活動を?

ミュージシャンです。自作の楽器で演奏しています。オリジナルサウンドを出すために、変な楽器をいっぱいつくりましたよ。今は、〈割り箸ピアノ〉を中心にやっています。

んん? 割り箸のピアノですか?

はい、これ。これです。

スゲー! 割り箸とは思えない繊細な音!

(カメラマン:宮本さん)ここは、お台場?

はい。レインボーブリッジの下。前は、お琴のような楽器をつくっていたんですけど、弦を増やすと手で弾けなくなってしまうんです。だから、鍵盤があったほうがいいなと思って。割り箸だったら、簡単にたくさん手に入りますし。それに、プラスチックのように固くないし、柔らかい音がすると思ったんですね。

思い描いていた音は、1発で出ました?

はい。考えていた以上に様々な音がしました。「やった!」と思いましたよ(笑)。

その割り箸は、どこで手に入れたのですか?

100均と引き出しのなかにあったヤツ(笑)。

お気に入りの割り箸メーカーとかあるんですか?

別にないですけど、セブンイレブンのはいいですね。竹でできていて、割りやすいのに、とても丈夫です(笑)。

なるほどー。たしかローソンのヤツは、割らなくていいヤツですよね。で、ここに弦を張っているんですか?

はい。最初につくった割り箸ピアノは24弦でしたが、2代目からは29弦になりました。

今、使っている割り箸ピアノは何代目?

動画の割り箸ピアノは4代目なんですけど、現在使っているのは6代目です。でも6代目は割り箸ではなくて、耳掻きですよ(笑)。

え? 耳掻き??

はい。耳掻きって、先っぽになんか付いているでしょ。

あー、フワフワ?

あー、それじゃなくて(笑)、私のは、丸い木のボールみたいなのが付いています。それをハンマー代わりにしちゃった。クリップとかワイヤーもいいと思いましたが、耳掻きを使ってみたら、音が良かったし、叩きやすかったんです。そういえば、先っぽがボールじゃなくて、カニの耳掻きも持っていますよ。木のカニ。北海道のお土産ですね(笑)。

いいですね(笑)。じゃあ、お家のなかは、お手製の楽器だらけなんですか?

ひとり暮らしのときは、そうでしたけど、今は結婚しているので、家にはあまり置けません。現在は、門前仲町にある工房に置かせてもらっています。

ああ、ご結婚してらっしゃるんですね。奥様は日本人ですか?

はい。

じゃあ、旦那さん、稼がないと。

そうなんですよ(笑)。

音楽の他にお仕事はされているんですか?

いいえ、基本は音楽だけ。奥さんの収入もありますけど、これで家賃も払っています。安定した仕事ではないですからね。あまり稼げない月もあります。冬が大変なんですよ。

なぜ冬は大変なんですか?

イベントが少ないし、みんな外に出たがらない。

じゃあ、ライブやイベントの出演料が収入になると?

そうです。あとは路上パフォーマンスですね。その場でCDも売れますから。

どこでやっているんですか?

代々木公園とか、毎週土日にやっている青山のファーマーズマーケットでもよく演奏しています。

ちなみに、日本で確定申告もしているんですか?

はい、もちろん。自営業ですから。2年前までは、アーティストビザを取っていたんですけど、今は結婚していますからね。

ミュージシャン活動は順調ですか?

まぁ、なんとかですね(笑)。でも、たまに家族の仕事も手伝っているんですよ。

奥様の?

そうです。

なにをやられているんですか?

奥さんのお母さんが居酒屋をやっているんです。奥さんもそこで働いています。私もたまに手伝いますし、あとは、お祭りのたこ焼きとか焼そばとか。

え? お祭りですか?

そうそう。目黒、五反田、泉岳寺、白金高輪とかのお祭り。

屋台ですか?

そうですよ、屋台を出しているんですよ。

サミエルさんが焼くの?

結構、上手だといわれました。この前は川崎でやりました。すごく暑かった。汗でビショビショになった。飛んじゃうよ。水飲んでもおしっこ出ない。あれは、岩盤浴より暑いですよ(笑)。

うまいこというなぁ! それにしてもサミエルさん、本当に日本語もお上手ですよね。来日してどれくらいですか?

25歳のときに来たので、もう12年になりますね。

どうして来日しようと?

大学院時代に出会った日本人の友達が大きかったですね。彼に影響を受けました。それと日本の言葉が面白かった。日本の言葉をもうちょっと覚えたいと思ったんです。日本の文字が好き。本当に面白い。

好きな文字を教えてください。まずは平仮名から。

えっと、〈か〉と〈え〉。

じゃあ、片仮名は?

〈ロ〉ですね(笑)。

そっちはシンプルですね(笑)。来日当時も、音楽活動はされていたんですか?

はい。

でも音楽だけでゴハンは食べられませんよね? 更に来日したばっかりだし。

ですから、ピアノ教室と英会話学校で働いていたんです。

ああ、もともとピアノをされていたんですね。

はい。米国では音楽系の大学に通っていましたから。

じゃあ、働きながら音楽活動を。

そうですね。あと、中高の女子校でも英語と音楽を教えていましたよ。

女子校!? 最高じゃないですか!!

いやいや、楽しくなかった(笑)。

なんで? ギャルに苛められた?

生徒さんじゃなくて、ルールが厳しかったんですよ。音楽の授業では、教えなくてはいけないことがすごく多かった。決まり通りにしなきゃいけなかったから、なにもできなかった。だから2年間で辞めました。

どのタイミングで、音楽を本業にされたんですか?

だんだん仕事が減って、バイトも週に2、3回くらいになったんです。だから暇になったので、たくさん曲作りができた。そのまま楽器をつくりはじめて、高円寺で路上演奏をやったんです。そしたら意外にもCDが売れまして。「これもアリかな?」と。それが6年くらい前。

すでにCDを出していたんですか?

そうです。前につくっていたエレクトロニカのCDです。

でもお客さんは、割り箸ピアノを見て、CDを買ったんですよね。でも帰って聴いたら、中身はエレクトロニカ(笑)。

そうそう、だからすぐに新しいCDをつくりました(笑)。

サミエルさんが生まれ育ったメイン州は、どんなところなのですか?

すごく、すごく寒いところですよ。メイン州の右上、カナダに近いポートランドという町の近く。ボストンまで車で2時間くらいのところです。寒いので海がキレイだけど、1年中冷たい。泳げるけど、すぐに身体が冷える海です(笑)。

ずっと、その町ですか?

7歳から18歳。高校を卒業するまでですね。

小さい頃は、どんなことをして遊んでいましたか?

自然で遊ぶのが好きでした。森のなかに、ツリーハウスとか、デカいブランコをつくったり。あとはビーチで釣り。カニを探していましたね(笑)。

またカニ(笑)。

あとは、家にピアノがあったので、やりたくなって始めました。6歳からレッスンを受けて。

クラシックピアノですか?

そうですね。でも僕は、あんまりクラシックは好きじゃなかった。ピアノを弾くこと自体が好きだったんです。まぁ、高校くらいになってからは、ドビュッシーとかサティとかが好きになりましたけど、もうちょっと現代的なのが好きでしたね。その後はジャズ。即興音楽とかやるようになりましたね。

ちなみに小学校は何年生まであるんですか?

小学校は5年まで、中学校が3年、高校が4年です。

中学生くらいになると、ガールフレンドができたり?

いえいえ。すごくダサかったから、全然モテませんでしたよ。アハハ!!

アハハ!!

15歳くらいのとき、ちょっとだけ彼女がいたときもあったけど、キスするくらいで、すぐ別れちゃった。アハハ!!

あらー、どうしてかしら? 

お喋りが苦手なんですよ。好きな子ができても、一歩前に出ない感じ。キャッチできない感じですよ。

ピアノでポロロ〜ンすればいいのに。じゃあプロムとかは、どうしたんですか?

行きませんでしたよ(笑)。楽しいと思わないもん。

思わないもん(笑)。あれって、どれくらいの人が行くものなんですか?

半分以上の人は行ってますけど、半分弱の人は行きません(笑)。

やっぱり、音楽家とか芸術家は、あんなの行かなくていいと?

そうですねぇ(笑)。まぁ、プロムに行くのは、普通の人がすることですね。そう考えると、私は普通ではありませんでしたね(笑)。若い頃から、変人だと思われていたと思います。

なぜですか?

変な行動をしていましたから。

例えばどんな?

うーん…そうですね、11歳のときにすごい吹雪があって、いっぱい積もって。1mくらいかな。みんなはウッドデッキから飛ぶんだけど、僕は屋根から飛んで骨折するとか。「お前は変だ」って。

かわいい変人(笑)。でも大学に行ったら、周りにたくさんの変人がいたんじゃないですか?

そうでもありませんでしたよ。ボストンの音楽系大学に入学したんですけど、皆パーティが好きで。僕は練習がしたくて、ピアノ室にこもっていても、「パーティ行こうよ! パーティ行こうよ!」って誘われるんですよ。意外に皆パーティ好きだなと。

どんなパーティですか?

ホームパーティです。近くに住んでいる人のアパートとか、一軒家を借りる人もいましたね。若かったから、お酒も弱かったし、限界もわからなかったので、私はいつも吐いていました(笑)。アート系とか音楽系大学のパーティは楽しかったんですけど…

楽しかったんですけど…(笑)?

ノースイースタン大学のパーティはちょっと(笑)。女の子は皆同じ格好で、同じ髪型。男もそう。皆、同じ髪型と服装。

プロム野郎ですね!!

脳みそが肉だけですよ。アハハ!

アハハ!! モテなかった時代とはサヨナラしました?

そうですね。大学3年から可愛い子とつきあいました。その子は別の大学だったので、休みのときだけ会って。

遠距離恋愛ですか?

そうですね。結局、彼女とは5年くらいつきあいましたね。

大学卒業後は、どうされたんですか? 大学院でしたっけ?

はい。私は早く試験を受けて、単位が取れていたので、3年で大学を卒業しました。それから地元に戻って、2年くらいホテルでピアノを演奏したり、ピアノを教えたりするバイトをしていたんですけど、そのあとにスコットランドのエディンバラにある大学院に入学しました。

あら、またどうしてエディンバラ?

彼女がエディンバラの大学にいたんです。

おおー。では遠距離ではなくなったと。よかったじゃないですか。

まぁ、色々ありましたけどね(笑)。エディンバラは楽しかったですよ。キレイだし、いい町でした。

でも彼女と別れちゃった?

はい。そのあと、1年間彼女とニューヨークで暮らしたのですが、そこで別れました。「このままだと結婚じゃない? 私はまだ若いし、色んな人とつきあってみたい」っていわれました(笑)。

やっぱりショックでした?

まあ(笑)。多分苦しかったと思うけど、今はあんまり覚えてないですね(笑)。そのあとに日本に来ました。

コンゴ民主共和国イトゥリ州で起きた殺戮の生存者たち

ナイン・リチャード、37歳。レンドゥの武装集団による襲撃ののち、ふたりの娘、2歳のロシェル、11歳のマーヴ・グレースとともにチェ村から避難した。妊娠中だった彼の妻と3人の子どもは襲撃によって命を落とした。コンゴ民主共和国、ブニアの国内避難民キャンプで「彼らは、私と子どもたちを草むらまで追いかけてきました」とリチャードは、襲撃を生き延びた十数名の被害者たちとともに座り込み、語った。「彼らの目的は、私たち民族を殲滅することです。命の危機に怯えています」Adam Desiderio for VICE News.

時として、記者が成し得る最善の行動は、身を引き、みんなに、各々のストーリーを各々の言葉で語ってもらうことだ。もちろん、この7名が総勢300名以上の取材対象を代表することはできない。しかし、いずれも、たくさんの生き残った仲間たちが直面した暴力と苦難の証言である。
― ニック・タース

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関連記事:コンゴ民主共和国を襲った沈黙の殺戮

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ジャンボ・ジェルマン(Jambo Germain)とローズ・ムペンジー(Rose Mpenzie)

マゼ村

襲撃が始まったとき、私は外にいました。ほとんどの男たちと同じように、私も村の中心にいたんです。それから家には戻らず、ニャ(Nya)という別の村に逃げました。妻と娘[ローズ・ムペンジー, Rose Mpenzie]は家にいました。妻は殺されました。妊娠9ヶ月でした。赤十字が生存者の捜索のため村にやってきて、ローズを捜しだしてくれました。妻がローズの上に横たわり、ローズを守っていたんです。私はその場にいませんでしたが、赤十字はそう話していました。翌日、家に戻り、妻が殺されたことを知りました。ワケがわからなくなって、ただただ泣き叫びました。本当につらかった。そして、娘がドロドロ(DroDro)にある病院に運ばれた、と聞きました。私が娘を見つけたとき、彼女は、包帯に巻かれていました。彼女は3回切りつけられました。腕を2回、頭部を1回。顔にまで傷は及び、腕は折れていました。まだ治ってはいませんが、回復に向かっています。でも、娘は何もしゃべろうとしません。かつての娘とは変わってしまった。泣きだしてしまうこともあります。「ママはどこ?」というだけです。

リシンガ・ジェラレ(Lisinga Gerare)

ソンガマヤ村

レンドゥによる襲撃の日、逃げ場はありませんでした。私は湖のほとりに避難して、一晩中、巨大な岩のあいだに隠れていました。武装集団が村人を殺し、湖に投げ捨てるのを見ました。夜のあいだは、彼らに見つかりませんでしたが、次の日も彼らは捜索を続けていたから、私の運はそこまででした。ひとりが弓矢を私に向け、動くな、手にもっている刃物を捨てろ、と命令しました。私は従いました。既に死んだも同然です。ただ、矢で射られるのだけはいやでした。それだけが私の望みでした。とにかくそれだけが怖かったんです。彼らは私に、ズボンを脱ぐよう命じてきたので、私は従いました。彼らは、私のベルトで、私を後ろ手に拘束しました。私は、ボタンで留めるベルトをしていたんですが、彼らが私の両手を縛ったとき、彼らはそのボタンを留めませんでした。実は自由だ、と気づき、目の前にいた連中のひとりを殴り、逃げました。何ヶ所か切りつけられましたよ。ひとりにはここ[後頭部を指さす]、ひとりにはここ[左肩]、もうひとりにはここ[右肩]。血を流しながら走り続けました。そうやって逃げたんです。

クロディーヌ・ペルーシ(Claudine Perusi)

チェレ村

ここ[国内避難民キャンプ]には3週間と4日前に着きましたが、まだ何も支給されていません。5回登録にいって、毎回「大丈夫ですよ、食べ物が届きます」といわれるんですが、何ももらえてません。私の子どもを不憫に思う他の避難民から食べ物を分けてもらっています。[シェルターにするための]プラスチックシートと食べ物が必要です。こんな状況では生きていけません。

ナイン・リチャード(Nyine Richard)

チェ村

彼らのことは知っていました。ご近所さんでしたから。リチャ(Richa)、レクダ(Lekda)、チェッダ(Tcheddya)、マノリ(Manoli)です。彼らは、1本の小川を挟んだ隣の村に住んでいました。彼らは「カネをよこせ!」といい、カネなどない、と私が答えると、襲われました。切りつけられたあと意識を失い、目覚めると横に息子の死体がありました。

マーヴ・グレースとロシェル・ンガブシ(Rochelle N’gabusi)

チェ村

あの人たちに片手を切られて、気を失いました。目が覚めてから、歩き回ってお母さんを見つけました。お母さんは死んでました。だけど、妹[ロシェル・ンガブシ, Rochelle N’gabusi]は生きてたので、お母さんの身体から服を脱がせて、それで妹を背負いました。同じ村に住む男の子も見つけました。刃物で片脚を切られてひどいケガをしていました。私はその子の手をとって歩くのを手伝いました。もうひとり男の子がいました。その子は、両脚を切られていたけれど、生きていました。私は何もしてあげられませんでした。それからお父さん[ナイン・リチャード, Nyine Richard]を見つけました。喉が乾いている、助けを呼んできてくれ、といわれました。村の男のひとたちが、生きている仲間を捜しに戻ってきていたので、私は、そのひとたちを、お父さんのところに連れていきました。

アルフォンシーヌ・ンジェデダ(Alphonsine Njededa)

ルレ村

「どうして私の身体を切るんですか? 許して! ご慈悲を!」と叫びましたが、彼らは私の腕を切りつけ、腕は折れてしまいました。指も切り落とされました。あとはここも2度、切りつけられました[包帯を巻いた左手で頭部を指す]。

シャーロット・ボリヴェ(Charlotte Borive)

マゼ村

私たちは逃げようとしました。北のほうに走りました。だけど襲撃者がいたんです。南に、東に、西にも向かいましたが、そこらじゅうに襲撃者がいました。囲まれてたんです。走っているとき、側頭部に何かがぶつかり、意識を失いました。目覚めたらドロドロの病院でした。

ロビニ・フロリベール(Lobini Floribert)

ニャマンバ村

何が起こっていのかわからないうちに、襲撃されました。私は左手首に矢を受け、それを引き抜きました。何人かで木製の漁船まで走り、みんなで船を湖のなかに押し出していると、ひとりのレンドゥが私の背後に現れて、刃物で私の背中を切りつけました。いっしょにいた仲間たちはみんな湖岸で殺されました。大怪我をして、血がでていましたが、湖に飛び込んで泳いで逃げました。

コンゴ民主共和国を襲った沈黙の殺戮

アンゴルー村から避難してきた少女の, マチェーテによる傷痕が残るうなじ. Adam Desiderio for VICE News

CHAPTER 1: 壊された日常

コンゴ民主共和国、ブニア。私が彼女たちに医療施設〈Mudzi Maria Health Center〉の外で出会ったのは、イースター前夜だった。空の色は、オレンジから薄紫へと移りゆき、近くのカトリック大聖堂からは聖歌隊の歌声が聴こえる。それから約30分間、聖歌隊は「アレルヤ、アーレルーヤ、アーレーェールゥーゥーヤ」とトリプル・チャントを神に捧げている。〈アレルヤ〉とは〈神を讃えよ〉を意味する古語だ。

私の目の前には、3世代からひとりずつ、合わせて3人の女性が座っている。ジェジンヌ・デウェザ(Jesinne Dhewedza)が最年長だ。この地域で暮らすデウェザと同世代の女性たちと同じく、彼女は、自らの年齢を知らない。ある晩遅くに、彼女の村を襲ったマチェーテ(農作業用の刃物)を携えた男たちに何をされたのか、デウェザは語ろうとしない。あるいは語れないのかもしれない。しかし、シワの刻まれた手は、そのとき何が起きたかを物語っている。2週間前、彼女の指は10本あったが、今は6本しかない。

神を讃えよ

イレーヌ・マーヴ(Irene Mave)は3人のなかでいちばん若い。ストライプ柄のポロシャツとスカートを着ている彼女の眼はうつろだ。デウェザと違い、彼女は自らの年齢を知っている。襲撃前ならば、6本の指を立てて年齢を教えてくれただろう。彼女は生まれてからずっと、かやぶき屋根の家屋が並ぶ農村、ロゴ・タクパ(Logo Takpa)村で暮らしていた。しかしもう、彼女は年齢を指で数えられない。2週間前、刃物を持った男たちに、右腕を切断されたのだ。

神を讃えよ

3人目の女性は、マリー・ズザ(Marie Dz’dza)。彼女は、デウェザの娘でイレーヌ・マーヴのおばにあたる。髪を短く刈り、ほっそりした女性だ。ターコイズ・ブルーのプラスチック製ビーズでできたロザリオを首にかけている。2週間前、彼女は5児の母だった。しかし、今は、マチェーテの男たちのせいで、4児の母だ。2週間前、彼女は畑を耕して食糧を得る農民だった。皮の厚くなった両手でキャッサバを育てていた。マチェーテの男たちは、その両手も奪った。

神を讃えよ

コンゴ民主共和国のイトゥリ(Ituri)州ジュグ(Djugu)地区を襲い、同地区の住民数十万人を苦しめた不可解な暴力は、201712月に始まった。ときには1日数件のペースで、パンガ(短刀)、斧、弓、槍で武装した男たちによって、次々と村々が襲われ、今年2月後半から3月上旬にかけて暴力の波濤は頂点に達した。国連によると、被害に遭った村は全部で約120。数百もの住民が殺され、数千もの家屋が破壊された。

襲撃が突発的に増加した原因については、様々な憶測が錯綜しているが、その結果に解釈の余地はない。民族浄化が繰り広げられたのだ。イトゥリ州の少数民族〈ヘマ(Hema)〉は、主に〈レンドゥ(Lendu)〉で構成された武装集団によって、住む場所を追われた。武装集団のなかには隣人もいた。破壊活動は、宇宙からも確認できるほど広範囲にわたり、その無慈悲さにより、ヘマは住む場所を奪われるだけでなく消滅の危機に追い込まれている、との懸念すらある。ヘマの文化協会会長、ハジ・ルヒンガ・バマラキ(Hadji Ruhingwa Bamaraki)は当時のインタビューで「これはジェノサイドだ」と訴えた。

35万人を超えるイトゥリ州民が襲撃によって避難を強いられた。そのうち5万人以上がアルバート湖(Lake Albert)を渡って隣国ウガンダに難を逃れた。米国でいえばセントルイスやピッツバーグ、シンシナティ、それぞれの都市の全人口が避難を余儀なくされているようなものだ。

コンゴ民主共和国の最東端で2018年初頭に起きたのは〈沈黙の殺戮〉だ。殺戮の暴威を世界は等閑に付し、それに続く人道危機は、国際社会の無関心により、深刻さの度合いを増した。米国トランプ政権が掲げる〈アメリカ・ファースト〉が今回の災厄で果たした役割は、決して小さくない。2017年、米国の平和維持活動支援が唐突に方針を転換した結果、マチェーテを携えた数百の民兵は、人を殺しながら何の咎も受けず、数十万の女性、子ども、男性たちは、計り知れない災厄に巻き込まれた。

ジュグ地区での虐殺、集団脱出の事実は、地区外にほとんど伝わらなかった。国連総会でこの惨事について検討されることもなく、ホワイトハウスが事態に警鐘をならすこともなく、夜のニュースで特集されることもなく、24時間放送のケーブル・テレビのニュース局で緊迫した討論が交わされることもなかった。

今年の2月から4月にかけて、私は、300人以上の関係者を取材した。首長、現役もしくはOBの政府職員、兵士、上級将校、活動家、アナリスト、国連職員、援助機関スタッフたち。私は、そのなかでも、マリー・ズザ、ジェジンヌ・デウェザ、イレーヌ・マーヴをはじめ、襲撃の目撃者や被害者の取材にほとんどの時間を費やした。目撃者、生存者のインタビューをとおして、私は、31もの村々における襲撃事件を確認した。それに加え、首長、地元ジャーナリスト、人権活動家、国内避難民たちが一連の襲撃と同様の、62件にも及ぶ虐殺の情報を提供してくれた。

彼らの証言、村々で目撃した破壊の痕、コンゴとウガンダで目の当たりにしたあまりにも心もとない支援の実情は、国際社会が人道危機を直視しない結果、現地で起きている事実の鮮明な詳細をものがたっていた。

コンゴ民主共和国のイトゥリ州ジュグ地区にある僻村, マゼ村の航空写真. 3月, レンドゥの武装集団が40名以上のヘマを殺害. Adam Desiderio for VICE News

ロゴ・タクパ村を襲った暴力は、ジュグ地区を飲み込んだ殺戮の典型だ。今年3月のある深夜、刃物、弓矢を携えたレンドゥの男たちが、夜の闇のなかを叫び声とともに村を襲った。目が悪く足取りもおぼつかないジェジンヌ・デウェザは、逃げる近隣住民たちに遅れをとった。母親想いのマリー・ズザも逃げそびれた。「母は逃げられなかった。だから、私が母を助けなければならなかったんです」と彼女。

少ししてから、ズザは母親を連れ、こっそり村から脱出しようと試みたが、ほどなくして、武装したレンドゥの男たちに見つかってしまった。マリー・ズザは、男たちを全員知っていた。彼らと同じマーケットを利用していたからだ。豆、野菜、キャッサバ、トウモロコシの粉を、みんなが売買していた、木造の露店が立ち並ぶ大通り沿いのマーケットだ。彼女は、幼い頃の彼らも知っている。

視界が悪く、状況を正確に判断できなかったジェジンヌ・デウェザは、若い男たちを叱りつけた。ズザは、母親の口を閉ざすために「ママ、叫ばないで。いいから祈って」と懇願した。そのとき、ひとりの男がパンガをふるい、ズザの側頭部を殴打した。そしてズザは意識を失った。

少ししてズザは意識を取り戻したが、まだ朦朧としていた。彼女が横たわっていた地面は、ベトベトに湿っていた。しばらくして、彼女は痛みに襲われ、激しく痛む自分の両腕を見つめた。刃物で切りつけられたであろうワンピースの袖は、糸でかろうじてぶら下がっていおり、血で染まっていた。「これで死ぬんだ、と確信しました」

マリー・ズザ(左), イレーヌ・マーヴ(ストライプのシャツ), ジェジンヌ・デウェザ(青いシャツ, 左手に包帯を巻いている). 同じ家族の3世代で, 3月に起きたイトゥリ州のチェ村に近いロゴ・タクパ村の襲撃を生き延びた. 刃物で武装した集団はズザの前腕2本, マーヴの右腕, デウェザの指を4本切断した. Nick Turse for VICE News

誰もズザを助けにはこなかった。しかし、それは彼女に限った話ではない。コンゴ東部の田舎では、自分以外に頼るものはない。支援団体もなければ、救急車も呼べない。警察も襲撃されれば逃げてしまう。

約2日後、村内を巡回していた兵士たちがズザを発見した。兵士たちは、いちばん近い医療センターに彼女を搬送した。「そこで、私は両手を失ったことを知りました」と彼女は、残った腕を私のほうへ突き出した。

前腕が通っていたはずのワンピースの袖は、だらん、と垂れていた。

ジュグ地区での殺戮、3月半ばにその殺戮が突然止んだことについて、説明するのは難しい。農地破壊、誘拐、殺人など、小規模な暴力はいまだに続いている。大多数の専門家やアナリスト、そして避難民たちは「見えざる手」と呼ぶ何かについて言及する。〈見えざる手〉、つまり、ヘマを追放するために、地方や国家権力を牛耳る実力者、もしくは、亡命中の政治家と結託した強力な政治的軍事勢力だ。

具体的な証拠はないものの、国民の大勢は、今年12月に予定されている総選挙を延期する口実としてイトゥリ州の情勢を撹乱すべく、ジョセフ・カビラ(Joseph Kabila)大統領、または、大統領支持者が殺戮を指揮しているのではないか、と予想している。カビラ大統領は、憲法で定められた任期が2年前に切れてからも、大統領の座に留まっている。

イトゥリ州ジュグ地区の諍いの影響によって、2018年の選挙が実施されない可能性がある、と選挙委員会長のコルネイユ・ナンガー(Corneille Nangaa)が報じたとたん、襲撃が始まった、と大勢が指摘する。ヒューマン・ライツ・ウォッチの中央アフリカ部長、アイダ・ソーヤー(Ida Sawyer)によると、この〈カオス戦略〉は、これまでにも成功を収めてきたそうだ。

「つまり、今回のような大規模な暴力を局地的に行使し、それを選挙のさらなる延期のための口実、カビラが大統領に留まるための理由として利用するんです」。これについて内務大臣兼副首相、アンリ・モヴァ・サカニ(Henri Mova Sakanyi)の事務所に何度かコメントを求めたが返答はなかった。

襲撃の動機は不明瞭だが、眼に余る残虐性は決定的だ。殺戮現場の写真は、ほぼまっぷたつに割られた頭、完全に切除されている頭部などを撮らえている。頭蓋骨は砕かれ、性器は切り取られている。遺体はあまりにもぐちゃぐちゃで、見ていると頭がおかしくなりそうだ。

私は、病院、医療センター、国内避難民キャンプを訪ね、負傷者やトラウマを抱えた被害者たちと話をした。刃物で顔を切られた幼児たちにも会った。片腕を負傷し、顔を矢で射られた年配の女性、武装集団に頭を切り取られかけた少女、片手を失った11歳の子どももいた。ある男性は、ふくらはぎを抉られ、その肉を食べるよう武装集団に強いられたという。

ブニアので救護ベッドに腰掛けるマーヴ・グレース(Mave Grace)11歳. チェ村で療養している. Adam Desiderio for VICE News

病院のベッドに横たわる男性たちとも対面した。血の滲んだ包帯に巻かれた彼らの瞳に生気はなく、表情もなかった。傷が許すかぎり身を縮めた彼らの姿は、全身で怯えを表現しているかのようだった。常に襲撃を恐れているようでもあった。彼らのほとんどが自らの体験について口を開こうとしない。女性たちは、襲撃のさいに集団レイプを受け、避難時には性暴力の標的になった。セーブ・ザ・チルドレンのレポートによると、ウガンダに避難したコンゴ人の子どものうちの10%が避難する最中にレイプされたという。

さらに大きな問題は、生存者たちがコンゴ民主共和国政府からも国際社会からも然るべき支援を受けていないことだ。診療所、医療センターでは、患者に投与する薬剤、適切な病院に患者を搬送するために記入すべき書類までもが不足している。避難民たちは、住居だけでなく、食糧や充分な飲料水にさえ事欠く状態だ。国内避難民キャンプも食糧不足に悩まされている。幼い子どもを連れた母親は、定員オーバーのテントに殺到するが、そこに入れなければ、何週間も野外で寝泊りしなければならない。キャンプ外の避難民たちの状況はさらにひどく、親族や他人の情けにすがらざるをえない。

薄紫の空が色を濃くするなか、マリー・ズザは、彼女の家族がどうにかカトリック系慈善団体〈Caritas〉の援助を受けられることになった、と教えてくれた。ジェジンヌ・デウェザ(Jesinne Dhewedza)は、一日中同じ姿勢でじっと座っており、時折、言葉数少なくつぶやく。イレーヌ・マーヴも何もしゃべらずに過ごしている。彼女たちはみんな、傷を癒すための定期的な治療を必要としている。もちろん生活必需品も。しかし、どちらも保証されてはいない。

Mudzi Maria Health Center〉を運営するシスター・アンジェール(Sister Angele)によると、センターの少し先にあるキャンプには9000余人の避難民がいるので、スタッフはみんな頑張っているが疲弊しているという。「一度にこんなにも大勢の患者さんがいらっしゃるなんて想像していませんでした。私たちが必要としているのは、ベッド、テーブル、レントゲン機器、薬など、基本的な設備と物資です」。行政サービスがない。援助がない。資金がない。「政府が何もしていないのはいうまでもありません」と院長は首を横に振る。

「コンゴ・マタティーゾ(Congo matatizo)」。〈コンゴの苦難〉を意味するスワヒリ語だ。

CHAPTER 2:  救済はどこに

3月上旬, レンドゥの武装集団がマゼ村の住民40人以上を惨殺した. 襲撃で殺された犠牲者のなかには女性や子どももいた. 村民の大半がブニアの国内避難民キャンプへ身を寄せたが,マゼ村に残り, 破壊を免れた数少ない建物のなかで暮らす村人も数名いる. Adam Desiderio for VICE News

マリー・ズザが重傷を負った襲撃に類する暴威は、19世紀後半に端を発する。19世紀後半といえば、ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)による『闇の奥』(Heart of Darkness, 1899)の舞台として悪名高いコンゴ川流域の広大な土地を、ベルギー国王レオポルド2世が私的に占有していた時期だ。レオポルド2世の公安軍は、天然ゴムを略奪し、住民に残虐非道をはたらいただけでなく、先住民の手を切断し、それをカゴいっぱいにしてレオポルド2世に仕える白人高官に献じていた。恐怖による支配だ。殺人、飢餓、病気、強制連行がコンゴに大打撃を与えた。19世紀末、レオポルド2世のホロコーストにより、コンゴの人口は半減し、約1000万人になってしまった。

それから100年後、1990年代半ばから2000年代初頭まで続いた〈アフリカ大戦〉で、さらに数百万人の国民が命を落とした。コンゴ東部だけで、40にも及ぶ武装集団が活動し、戦闘、あるいは、飢え、病気が原因で、500万人以上の国民が犠牲になった。

イトゥリ州では、〈牧畜のヘマ〉と〈農耕のレンドゥ〉の対立が地元、国内、地域の紛争と絡み合い、泥沼化した。ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、2000年代初頭には、数ヶ月にわたる戦闘で約7000人が死亡し、同州は〈人道的大混乱〉に陥った。1999年から2003年にかけての死者数は推定5万5000、避難民は50万に及ぶ。同州は、コンゴで「どこよりも血なまぐさい土地」と呼ばれた。

今でも地球のどこかで紛争が続いており、避難生活を強いられる人びとが後を絶たない。2017年末の時点で、6850万人もの人びとが避難民として生活している。コンゴ民主共和国の危機的状況は、そのなかでも最大規模と目されている。北キヴ(North Kivu)州、南キヴ(South Kivu)州、タンガニーカ(Tanganyika)州、カサイ(Kasai)地域、さらに首都キンシャサ(Kinshasa)でも、反政府運動が過剰な武力で弾圧され、暴力と混乱が収まる気配はない。

今春、イトゥリ州を離れた避難民35万がコンゴの国内避難民680万に加わった。国を出てサブサハラに逃れた避難民は552000にも及ぶ。2017年だけで200万以上のコンゴ共和国民が故郷を後にした。この数は、ミャンマーで家を失ったロヒンギャのおよそ3倍だ。2018年、1300万のコンゴ人が人道支援を必要としており、その数は、人道支援を必要とするシリア人の数に匹敵する。

今でこそイトゥリ州は、コンゴで〈もっとも血なまぐさい土地〉ではないが、ここ数ヶ月、同州で吹き荒れた暴力は、19世紀末から20世紀初頭、そして、21世紀の同国での殺戮、あるいは地球上で起きたあらゆる虐殺と肩を並べるほど深刻で残虐だった。

VICE NEWSが独自に確認した、襲撃を受けた村

Angolou アンゴルー
Blukwa ブルクワ
Bule ブレ
Cite シテ
Dhendro デンドロ
Dii ディー
Joo ジョー
Kafe カフェ
Kakwa カクワ
Kasenyi カセニ
Kawa カワ
Kparngandza クパーンガンザ
Kpi Kpi クピ・クピ
Logo Takpa ロゴ・タクパ
Lovi ロヴィ
Marifa マリファ
Maze マゼ
Metu メチュ
Nyamamba ニャマンバ
Reta レタ
Rule ルレ
Sala サラ
Sbii スビー
Sombosa ソンボサ
Sombuso ソンブソ
Songamaya ソンガマヤ
Talega タレガ
Tara タラ
Tche チェ
Tchele チェレ
Tchomia チョミア

*VICE NEWS独自の調査により, 31の村への襲撃を確認した. ヘマの情報によると, それに加え, 少なくとも62の村が襲撃を受けたという. 国連は, 最大で120と発表している.

「コンゴは、暴力が日常茶飯事の国です。しかし、そんなコンゴにおいても、ジュグ地区の襲撃の数はかなり異常でした」とヒューマン・ライツ・ウォッチのソーヤー部長は指摘する。「暴力が始まると、ありえない速さで広がりました。現地のみんなにしてみれば、何の前触れもなく始まったかのようでした」

イトゥリ州出身のヘマ難民や国内避難民たちが口をそろえて語るところでは、確かに過去の衝突でレンドゥとの禍根は残っていたものの、この10年は、比較的穏やかに隣人として暮らし、マーケットも共有しており、グループをまたいだ婚姻もあったという。半年前頃からは緊張が高まり、近々攻撃される、という噂が広まっていたとはいえ、ヘマの避難民たちは、隣人が一夜にして殺人者に変貌した事実を目の当たりにし、ショックを受けている。

「これは民族紛争なんかじゃありません」とレンドゥ文化協会副会長のジャン=マリー・ンジャザ・ランド(Jean-Marie Ndjaza Linde)は、今年の3月初頭、まだ毎日のように虐殺が起きていた時期のインタビューで断言した。「これは部族間の戦いではありません。私たちは、見えざる手に操られているんです」。2006年から2011年までイトゥリ州議会の代議士を務めたレンドゥのンガブ・カパーリ・ジャン=ピエール(Ngabu Kaparri Jean-Pierre)も「ふたつの部族を衝突させる計画」があったのかもしれないという。

動きまわる武装集団が4月初頭までに, コンゴ民主共和国イトゥリ州内の120の村々を蹂躙した. Nick Turse for VICE News

ヘマのハジ・ルヒンガ・バマラキ(Hadji Ruhingwa Bamaraki)文化協会会長も同様の見解だ。「ふたつの部族のあいだに諍いはありません。なぜ攻撃されているのかわかりません」。彼も、見えない力が働いているとする説を支持する。「黒幕は誰なんでしょう。実に見事に組織された混乱です」

刃物や弓矢だけの襲撃者たちから、アサルトライフルで武装した地元警察や兵士が逃げていた、という証言を数十人から得た。

コンゴ民主共和国政府軍(Armed Forces of the Democratic Republic of the Congo: FARDC)のイトゥリ州広報担当者であるジュール・ンゴンゴ(Jules Ngongo)中佐は、その証言をきっぱり否定した。中佐によると、敵前逃亡者には20年の禁固刑が課されるという。

とはいえ、政府が他地域から兵士や警官隊を派遣し、ジュグ地区に潜む武装集団を標的にしたFARDCの任務が始まったのは、今年の2月下旬だった。しかも国連のレポートによると、2月から3月中旬までにイトゥリ州で報告された襲撃70件のうち、治安部隊が介入したのはたったの10件だった。

襲撃の被害者が田舎から逃げ出すのといっしょに、虐殺のニュースは瞬く間に広がった。その話題は、地元議員でジュグ地区出身のアルール(Alur)族、ピエール・クラヴェール・ベディジョ(Pierre Claver Bedidjo)の耳にもすぐに届いた。彼は、イトゥリ州の州都ブニアの自宅で、2月のあいだずっと、この危機的状況について悩み続けた。わずか数十キロ先で、村々が焼かれ、たくさんの住民が殺されているというのに、中央政府、イトゥリ州知事、治安部隊は、ほとんど何もしていない。

およそ20年前、イトゥリ州で勃発した民族紛争をどうにか生き延びたベディジョにとって、それ以上の暴力など耐えられなかった。怒りに震えた彼は、権力者を動かそうと決意し、助けを要請する手紙を書いた。ベディジョは、その手紙を、ジュグの民を救ってくれるであろう政府関係者各所に郵送した。その手紙は、地元メディアにも取りあげられた。

何が起こっているか具体的に知らないなんて、誰にもいえるはずのない状況だった。

「ジュグ地区で血が流れていることを、私は、貴方に進言しなくてはならない義務があります。実際、貴方の代表団がイトゥリ州に滞在してちょうど1週間になります。その期間は、ジュグの民にとって、まさに血まみれの1週間でした」。ベディジョが3月12日にアンリ・モヴァ・サカニ内務大臣兼副首相に送った手紙にこう記した。「貴方の滞在中にも、サラ、ロニョ(Lonyo)、デリ(Deli)、ルツ(Lutsu)、サイクパ(Saikpa)、ロザ(Lodza)、ニャマンバ、カフェ(Café)、ジナ(Jina)、ロガ(Loga)などを含むたくさんの村々への襲撃が確認されています」。この土地は、急速に遺体安置所になりつつある。「今こそ、公権力は、たとえどんな犠牲を払おうとも、平和をもたらすために行動すべきです」と彼は嘆願した。

翌日も、キーボードを叩くベディジョの怒りは収まらなかった。「貴方は長いあいだ、エアコンの効いた快適な事務所に閉じこもっています。外では、おびただしい量の血が流れているというのに」。彼は手紙で、イトゥリ州知事、ジェファーソン・アブダラ・ペネ・ムバカ(Jefferson Abdallah Pene Mbaka)を厳しく非難した。「閣下、貴方も、時間を無駄にすべきでない、とわかっていらっしゃるはずです。日々、たくさんの家が焼かれ、たくさんの住民が命を落としているのですから」。彼は手紙をこう締めくくる。「どうか忘れないでください。貴方がこの難局でいかに民を救ったか、その手腕がジュグの住民、イトゥリの住民に評価されることになるのです」

ダヴィッド・イツォバ(Davide Itsobwa)は, 3月のマゼ村の襲撃で, 母親を含む親族15名を失った. イツォバは, 地元の人権団体に協力するため、殺害された村民全員の名前を記録しようとしている. Adam Desiderio for VICE News

ベディジョの手紙について、サカニ内務大臣兼副首相、ペネ・ムバカ州知事に複数回コメントを求めたが返答はなかった。

政治家たちの沈黙に耐えかねたベディジョは、3月15日、国連の平和維持部隊〈国連コンゴ民主共和国安定化ミッション(United Nations Organization Stabilization Mission in the Democratic Republic of the Congo: MONUSCO)〉の地域代表に訴えた。「ご存知の通り、この3ヶ月近く、ジュグ地区は炎と血で覆われています。殺人、家屋の炎上、略奪、大量の避難民。凄惨な光景が日常と化しています」。彼の手紙はこう始まる。ベディジョは、人道危機と飢餓の可能性を警告し、行動を訴えた。「なぜなら、もし私たちが見過ごしてしまえば、同地区、あるいはイトゥリ州全域が焦土になるおそれがあります」

コンゴ政府軍や地元警察は頼りにならず、ともすれば暴力に関与していることのほうが多いだけに、同地域におけるMONUSCOの重要性は誇張してもしきれない。例えば、テネシー州ノックスビルのテネシー大学(University of Tennessee)及びノースカロライナ大学ウィルミントン校(University of North Carolina Wilmington)の研究者による最近の研究では、MONUSCOの拠点付近では暴力発生件数が劇的に減少している、と確認されている。さらに、国連軍に守られているエリアでは、民間人の死者が比較的少ないこともわかった。

しかし、今回の襲撃事件が始まる数ヶ月前に予算が削減され、MONUSCOの活動は阻まれた。イトゥリ州の拠点も閉鎖に追い込まれた。

MONUSCOの予算削減を推進した張本人は誰か? 米国だ。

2017年、トランプ政権の新国連大使、ニッキー・ヘイリー(Nikki Haley)がMONUSCOの活動を含む、平和維持活動における大幅な予算削減案を推し進め、それを実現した。ヘイリー国連大使は予算削減を歓迎し、トランプ新政権のこれからに期待感を示した。「われわれは、米国民に血税の使い途の価値を示す義務があります」と彼女はいう。「大統領は、就任からわずか5ヶ月で、5億ドル(約554億円)もの国連平和維持活動予算の削減に成功しました。これは始まりに過ぎません」。VICE Newsは、ヘイリー国連大使の事務所にコメントを求めるべく、複数回連絡した。最終的に広報担当から「大使の公式声明に付け加えるべき内容はない」との返答を受け取った。

リシンガ・ジェラレ(Lisinga Gerare), 57歳。イトゥリ州の僻村、ソンガマヤ村の襲撃の被害者。「逃げられる道も, 隠れる場所もありませんでした. 年寄りや子どもを虐殺し, 家々を燃やし尽くしました」 Adam Desiderio for VICE News

イトゥリ州で予算削減の影響が明らかになる以前、ニューヨークのシンクタンク〈国際平和研究所(International Peace Institute)〉による2017年のレポートは、ヘイリー大使の策略は「コスト削減だけが目的であり、より実効性の高い計画、より平和なコンゴ民主共和国を実現するための明確なビジョンを反映しているものではない」と警告した。2018年1月に発表された〈Center for Civilians in ConflictCIVIC)〉のさらに詳細なレポートでは「紛争地域の民間人を保護できる地域とできない地域の差が生じる可能性がある」と指摘している。

同月、暴威がイトゥリ州で猛威をふるった。

コンゴ民主共和国の国連事務総長特別代表補デヴィッド・グレスリー(David Gressly)によると、事前通告もないに等しいなかで予算の大幅削減が実施され、2017年の活動は大打撃を受けた、と証言する。「平和部隊ひとつぶんの予算に相当します。少ない部隊でより広域をカバーしなくてはなりませんし、多くの拠点からの引き上げを余儀なくされています」

私は、予算削減によってイトゥリ州での襲撃に対処するMONUSCOの活動が阻まれたのか、という質問を米国国務省に複数回問い合わせたが、平和維持活動への米国の支援についてぼんやりした説明が返ってきたのみで、明確な回答はなかった。米国の資金援助に頼っているMONUSCOも、このような質問は基本的に無視している。ただ、フロランス・マーシャル(Florence Marchal)広報担当は「拠点閉鎖がMONUSCOの今年初頭の応答時間に影響した」と認めてはいる。

CIVICの平和維持アドバイザーで、前述の2018年のレポートの著者であるローレン・スピンク(Lauren Spink)は、グレスリー国連事務総長特別代表補とマーシャルMONUSCO広報担当の見解に同意する。「MONUSCOが撤退を余儀なくされた地域では、武装集団の活動が活発化しており、現在、これまでならば同組織によって牽制できたであろう襲撃が発生しています」

虐殺が起きたことにより、国連平和維持部隊は、ジュグ地区に12の短期〈常備戦闘配置〉基地と5つの暫定的な軍事基地を設置した。しかし、スピンクは「MONUSCOの短期的な駐留では、住民を守りきれません」と指摘する。

3月にチェ村から避難してきたクロディーヌ・ンガベ(Claudine Ngabe). 2歳の孫, ロシェル・ンガブシ(Rochelle Ngabusi)の面倒を見ている。ブニアの国内避難民キャンプで「この子の母親はレンドゥに殺されました」とンガベ. Adam Desiderio for VICE News

アフリカの場合、MONUSCOの予算削減は、トランプ政権の無関心を象徴するひとつの例にすぎない。トランプ大統領がアフリカの国々を「肥溜め(shithole)」国家と発言したことを認めなくとも、彼の政策や予算削減自体は、彼の姿勢をものがたっている。トランプ政権下の米国は、コンゴ民主共和国を含む14ものアフリカ諸国に大使を派遣していない。2017年8月、トランプ政権は、アフリカ大湖沼地域およびコンゴ民主共和国における米国特使の役職廃止計画を発表した。特使の業務は、他の政府関係者に割り当てられる。現在、米国国務省アフリカ局の指導者的役職の大半を、〈臨時〉の職員、つまり、大した権限を持たない代理人が務めている。さらにトランプ政権は、国務省と国際開発庁(U.S. Agency for International Development: USAID)の予算の25%削減を目指している。

当記事公開に先立ちホワイトハウス側にコメントを求めたが、返答はなかった。

コンゴ民主共和国への支援額が米国の方針を裏付けている。10年前、コンゴの〈人道対策計画(Humanitarian Response Plan)〉では、要請額の83%が集まった。そのさい、米国は、圧倒的な支援金を提供した。イトゥリ州の虐殺事件後、2018年4月の支援会議で米国の支援額は、3番目に止まった。米国のコンゴへの支援額は、10年前と比べると40%減少していた。

全体として、コンゴ民主共和国への世界からの人道支援は減り続けている。2015年は援助対象者ひとりあたり84ドル(当時のレートで約8400円)だったところが、2017年には61.5ドル(約6800円)となった。2017年、コンゴへの義援金の達成率は59%。つまり、必要とされる3億3100万ドル(約330億円)には40%以上足りない。

2017年、コンゴ民主共和国の援助対象者ひとりあたりの総額は62ドル(約6900円)。一方、シリアでは、ひとりあたり305ドル(約3万3000円)です」と説明するのはノルウェー難民委員会(Norwegian Refugee Council)のキンバリー・ベネット(Kimberly Bennett)だ。ノルウェー難民委員会は、イトゥリ州の危機のあいだ、現地で存在感を発揮した世界でも数少ない支援団体である。「もちろん、かかるコストは国によって違います。しかし、ここまでの格差をどう説明します?」

2018年初頭には、寄付金不足のため、惨状はさらに悪化した。国際移住機関(U.N. migration agency)コンゴ民主共和国大使、ジャン=フィリップ・ショジー(Jean-Philippe Chauzy)は、1月に「コンゴ民主共和国の人道的状況は、われわれの手に負えない」という声明を発表した。イトゥリ州以外で、2017年のカサイの紛争地域、南北キヴ州、タンガニーカ州を中心に、17億ドル(約1900億円)が必要だと試算されている。

何千ものコンゴ共和国民がこういった国内避難民キャンプに逃れた. ブニア最大のキャンプ. Adam Desiderio for VICE News

コンゴ民主共和国での人道支援に必要な資金調達は、海外投資家と多国籍企業の関心をひくために国情を偽ろうとする中央政府のあがきに妨げられている。「コンゴのイメージをあえて貶めるかのような、支援機関による国内情勢の説明に、政府は反論します」とパトリック・ンカンガ(Patrick Nkanga)大統領顧問官は、支援金調達に奔走している組織について発言した。国際協力次官のフレディ・キタ(Freddy Kita)も、4月、『New York Times』に同様の見解を述べ、コンゴ国内では「人道危機など起きていない」と主張し、援助の呼びかけなどは〈邪悪なキャンペーン〉の一環だとした。

最終的に、コンゴ民主共和国は、4月に開催された自国支援のための会議をボイコットした。また、参加者の大半がボイコットしたも同然だった。会議では、必要と想定された資金の3分の1以下、約5億2800万ドル(約580億円)が約束されたが、資金を拠出したのは、参加した計55の国と地域組織のうち、わずか22に止まった。6月末、コンゴ民主共和国は、2018年の人道対策計画の資金額において、イエメンやイラクなどの危険地帯を差し置いて、ワースト5に位置している。

「実に残念です」とワシントンD.C.を拠点とする活動団体〈Refugees International〉のサブサハラ・アフリカ専門家、アレクサンドラ・ラマルシュ(Alexandra Lamarche)は嘆く。「支援を必要としているコンゴ民主共和国民の数は、支援を必要としているシリア国民とまったく同じ数です。しかし、みんなコンゴには関心がないんです」

CHAPTER 3: 逃げ場なし

住む場所を追われた家族は, ブニアにある総合病院周辺の国内避難民キャンプにシェルターをつくる. Adam Desiderio for VICE News

避難民たちは、絶望と疲労に打ちひしがれ、徒歩、またはトラックやバイクで、イトゥリ州の広大な田園地帯の片隅にある村や町に押し寄せた。

今年2月上旬、避難民がブニアの総合病院に殺到した。敷地に入りきらない避難民が病院周辺で生活を始めた結果、その一帯は、同地域で最初の国内避難民キャンプになった。ほどなくして、避難民数百人が、折り重なるようにつくられたシェルターで生活を始める。5月下旬の時点で、1万722人が猫の額ほどの土地を共有していた。

2月、人道支援組織は、ブニアの窮状に対処するべく、900万ドル(約10億円)もの包括的援助計画の概要を発表したが、それでは不充分だとすぐに判明した。〈LASI〉の別称で知られる地元NGOAIDS League of Ituri〉職員で58歳の牧師、イグニス・ビンギ(Ignace Bingi)は、キャンプ滞在者全員に温かい食事を日に1食届けるだけでも、約540キロの米、約300キロの豆、約40リットルの油が必要だ、と総合病院で明かした。食糧は常に不足しているという。

「いつもお腹が空いています」と57歳のリシンガ・ジェラレは訴える。彼は、5児の父親で、ソンガマヤ村への襲撃から逃れてキャンプにたどり着き、足を伸ばして眠れないほど小さなテントで暮らしていた。

「午前中はおかゆをもらうために列に並び、夜も米と豆をもらうために、長い時間列に並びます」とリシンガ。「肉も魚もフフ(アフリカ全域の主食。キャッサバ粉などを練ったもの)もありません。私たちはここで、生きているフリをしているようなものです」

2月の時点ではまだ、キャンプ滞在者は1日2食にありつくことができた。4月には、多くても1日1食になってしまった。その頃には、街の反対側に別の国内避難民キャンプが開設され、ブニアの避難民は128235人を数えた。

「今夜は全員に食事を届けられないかもしれません」と4月上旬のある日、キャンプ地の高台にある不衛生な仮設トイレの近くでビンギ牧師は言った。「貯蔵室には、ほぼ小麦粉しか残っていません」。彼はキャンプの清掃業者、調理スタッフ、警備員を雇い、資金を全て使い果たしていた。

「今は彼らに賃金を払っていません。神が与えてくださるでしょう」。ひと呼吸置いて空を見上げた後、「そう願っています」と彼は続けた。

動きまわる武装集団によって立ち退きを余儀無くされた住民の多くは、ブニアを離れて東へ向かい、アフリカ大陸で5番目に大きい湖、アルバート湖を横切る国境を越えて逃げるしかなかった。避難民の大半は、壊れかけた木製の漁船やカヌーで、近辺ではおそらくもっとも安定しているウガンダに向かうため、全財産、またはそれを上回る1万~4万コンゴ・フラン(約700~2800円)を費やした。

「舟は超満員です。座礁したり、迷ってしまう舟もあれば、燃料切れになる舟もあります」とUNHCRのフィールドオフィサー、タム・ダニエル・ロジャー(Tam Daniel Roger)は、3月のある曇りの朝、地域最大の舟着き場であるウガンダのセバゴロ(Sebagoro)で証言した。

避難できなかった住民もいる。2月11日、湖を渡ろうとして4人が溺死した。匿名を条件に取材に応じてくれた現地の当局者によると、死者のうち3人は子どもで、それぞれ3歳、9歳、12歳だったという。

それでもなお、湖を渡るコンゴ共和国民は数十、数百、数千と増え続けた。

3月, 国内避難民がブニアに押し寄せた. Adam Desiderio for VICE News

ウガンダ北部で、南スーダンの内戦、その戦闘を逃れた1万人以上の難民、というふたつの人道危機に対応していた国際援助機関は、コンゴ共和国からの難民流入に対処すべく、アルバート湖周辺に拠点を移した。車道はすぐに様々な団体の頭文字が記されたトヨタの白いランドクルーザーで埋め尽くされた。UNHCRUnited Nations High Commissioner for Refugees:国連難民高等弁務官事務所)、MSFMédecins Sans Frontières:国境なき医師団)、LWFThe Lutheran World Federation:ルーテル世界連盟)、MTIMedical Teams International:国際医療チーム)、 AIRDAfrican Initiatives for Relief and Development)、FRCForeign Relations Committee:米上院外交委員会)、IOMInternational Organization for Migration:国際移住機関)、WFPWorld Food Programme:国連WFP)、ICRCInternational Committee of the Red Cross:赤十字国際委員会)。この景色は〈現在進行形の危機〉が起きていることの証でもある。ウガンダ側のアルバート湖畔では、コンゴ国内よりずっと多くのNGOが活動しているが、新たな人道危機により、支援スタッフは対応に追われた。

時を経ずに、感染症が広まった。2月15日、セバゴロに到着した年配の男性1名が、嘔吐、発熱、激しい下痢の症状を訴えた。同じ日、同様の症状に苦しむ5歳未満の幼児ふたりがキャングワリ(Kyangwali)の難民キャンプで死亡した。3月末までに、キャングワリとキャカ(Kyaka)の難民キャンプで計2022件のコレラの症例が報告された。キャングワリだけで約7万6000人が感染の危険にさらされた。

セバゴロから約50キロ、雨が降らなければ2時間程で着く場所にあるキャングワリの施設は過密状態で、事態は混乱をきわめていた。数千もの難民が雨季の豪雨にさらされ、国境なき医師団のレポートによれば「劣悪な」衛生状態の野外での生活を強いられていたという。

(左)ISPキャンプの未完成のシェルターで眠る子ども. ブニアの同キャンプは, 隣接する教育機関から名付けられた.
(右)ブニアのISPキャンプにて. シェルターの骨組みのなかで子どもを抱く6児の母, 44歳のロジェリーヌ・ンドロバ(Rogeline Ndrobha). 彼女はこの2週間, 金属製の屋根の下, 壁のない木の骨組みのなか, 地べたで眠っていた. Nick Turse for VICE News.

2月、アルバート湖畔に絶え間なく押し寄せる難民に対応するため、当局は、キャングワリにマラタトゥ(Maratatu)と呼ばれる別の居住エリアを開設した。しかし、その後数週間で、避難民に供給可能な飲料水は、緊急事態と危ぶまれる量よりも少なくなった。3月には、米国オレゴン州の国際援助機関、国際医療チームが実施した幼児の栄養状態のスクリーニング検査の結果、緊急事態を示す値を超えた栄養失調の子供たちがいることが明らかになった。

ゆるやかな起伏が続く草原に、無秩序に広がるマラタトゥのキャンプには、数千もの小さなシェルターが点在していた。UNHCRのロゴ入りの白いビニールシートで覆われた、木と竹と草でできたシェルターのひとつで、私はふたりの孤児、バラカ・ロコリオ(Baraka Locorio)とバラカ・ロサ(Baraka Losa)に出会った。ふたりの父親は、何年も前に亡くなり、母親は、レンドゥの武装集団によるタラ村襲撃で、数週間前に亡くなったばかりだった。

避難してきた数百人の子どもたちのために米を炊く女性. ブニアの総合病院周辺にある国内避難民キャンプ. Adam Desiderio for VICE News

「食べものが足りない。いつどこで配給があるかもわからない」とロコリオ。「僕たちが持ってるのは、せっけん、燃料缶、ビニールシートだけ」とロサはビニールシートに覆われたシェルターを指差して説明した。「水は足りてる」と彼の兄弟、ロコリオは教えてくれた。「でも、いちばんの問題は食べもの、服、教育。これがなければ豊かな生活はできないよ」

ロコリオは、コンゴに平和が戻れば帰りたいという。「未来をつかむためならどこにでも行く」とロコリオ。ロサは違うようだ。「絶対に帰らない」と彼は断言した。私がロサと話していたとき、ロコリオは、腕を引っ掻いて文字や模様、記号を描いた。乾燥した肌に血が滲むほどではないが、引っ掻いた痕が残るくらいの力を込めていた。反対側の腕や足にも似たような模様があった。私は彼に模様の意味を訊いた。「ただの文字だよ」と彼は顔をしかめ、恥ずかしそうに答えた。「他に何をすればいいかわからないから」

CHAPTER 4:  見えない明日

イトゥリ州ジュグ地区の中心地, ジュグ村にある政府軍の仮設軍事キャンプ. Adam Desiderio for VICE News

4月、一部の避難民がブニアに程近い村に戻り始めた頃、私は政府軍の部隊とともにセントラル=ラルグ通り(Central-Largu Road)を走り、ジュグ地区へ向かった。政府軍の兵士たちは迷彩服を着こみ、真っ赤なニット帽やさびた鉄のヘルメットなど、様々なかぶり物を頭にのせていた。ムッとするような汗とタバコの匂いを漂わせる彼らは、ここ数週間、徒歩で警らにあたり、時折、レンドゥの武装集団と戦ったという。

車に揺られて埃っぽい道を走り、丘を越えて平らな草原に入ると、彼らは黒焦げになった車のある交差点を指差した。3月下旬、政府軍はこの場所で、AK-47と弓矢を携えたレンドゥの奇襲を受けたという。「思い切り叩きのめしてやった」とナウェジ・マコボ(Nawedji Makobo)上級曹長。

MONUSCOによる政府軍の配備と作戦は、殺戮を中断させたかにみえたが、被害は甚大だった。ある村の男性数名が兵士に護衛されながら農場に向かい、ありったけの作物を収穫した。しかし、村に戻った彼らが目の当たりにしたのは、かろうじて平時の面影が残る、ひとけのない村だった。

襲撃者たちはヘマの村々から、家畜、食糧、台所用品、服など、金になりそうなモノを奪いつくした。彼らは、家屋、学校、教会の金属製の屋根を引き剥がして持ち去った。盗まなかったものには火を放つか、破壊し、蹴散らした。家々は粉々になったレンガの小さな塊、焼け焦げた竹材の山、破壊を物語る廃墟になり果てた。家屋の壁は壊され、なかから片足だけの長靴、割れた食器、溶けたプラスチックの燃料缶など、生活の残骸がのぞいていた。

襲撃のパターンは、苛烈で、大虐殺の動機が民族浄化の証左だ。

例えばヘマのロナ(Lona)村では、家屋は廃墟と化し、市場の露店はがらんどうだった。一方、そこから少し先のレンドゥの村、バブでは、絵に描いたような田舎の生活が営まれていた。かつてヘマの村だったタリは、破壊し尽くされ、共同体を形成していた住民の姿はなく、地図上にしか残っていない。しかし、すぐ近くのサリボコ(Saliboko)村に炎は及ばず、レンドゥの家族は普段通りの生活を送っていた。ヘマのマリファ(Marifa)村も無人で、黒焦げになった建物が点在していたが、近隣のレンドゥのモサンブコ(Mosumbuko)村に被害はなく、住民は通常の生活を続けていた。

ヘマとレンドゥが隣り合わせで生活し、働いていたクパーンガンザの町も同様だ。焼かれた家もあれば、そうでない家もあった。ある店は廃墟となったが、別の店は営業中だった。

4月に私がコンゴを発った数週間後、イトゥリ州のペネ・ムバカ州知事は、ブニアのキャンプの国内避難民に帰宅を呼びかけた。彼はもう「懸念事項は何もない」と断言した。政府軍幕僚長のディディエ・エトゥンバ・ロンギラ(Didier Etumba Longila)将軍も、ジュグ地区の治安は正常に戻った、と発表した。

政府は、その根拠として、3月中旬にヘマとレンドゥの首長が署名した停戦協定に言及した。しかし、双方とも、交戦などしていない、と主張している。国連と会談した匿名の情報筋によると、ヘマとレンドゥの首長間の協定は、それぞれの代表者の話し合いの場も設けられずに結ばれたという。

立ち止まり写真を撮る政府軍の兵士. 廃墟化したマリファ村. 今年始め, 同村を含むジュグ地区の120の村々が武装集団に襲撃された. Nick Turse for VICE News

イトゥリ州では、小規模な暴力が続いている。4月22日、カウ(Kau)村のヘマの農夫たちが、武装したレンドゥに拉致された。UNHCRのレポートによると、5月8日には「ナイフを携えた男たちがチェ村に侵入し」21のパイナップル畑に火を放ったという。5月24日には、ジュグ地区の採石場で、襲撃者たちが刃物を振り回し4名が死亡、2名が負傷した。その数日後、バイクでブニアに向かっていた女性3名と男性1名が拉致された。ごく最近では、ヘマとレンドゥのあいだで交わされる小規模な報復攻撃、アルバート湖付近での武装集団による奇襲のほか、ブニア以外での殺人、略奪、強盗など、散発的な襲撃事件の報告がされている。

市民社会組織、ヘマとレンドゥ首長の代表団、さらに政府軍上層部は、ジュグ地区のいくつかの地域において政府軍部隊の不在が続いていることで、避難民が帰宅に不安を抱いている、と認識していた。

5月下旬、故郷の村に帰る避難民もいるいっぽう、よりいっそう絶望的な環境のブニアに向かう避難民の流れが途切れることはなかった。総合病院周辺のブニア初のキャンプでは、食事の配給が完全に途絶えた。キャンプ管理側は「避難民にとって悪夢だ」と地元メディアに明かした。

複数の避難民がイトゥリ州での暴力、それに続く貧困を〈悪夢〉という言葉で表現した。しかし、暴力や貧困の原因を理解している避難民はほとんどいなかった。隣人が殺人者になった理由は? なぜ国際社会は、重傷者を含め暴力の被害者が飢えていくのに無関心だったのか?

4月上旬, ジュグ地区は, 廃墟と化した家屋数千軒と学校, 診療所, 教会の瓦礫で埋め尽くされていた. Nick Turse for VICE News.

将来について「これからどうなるのか全くわかりません」とマリー・ズザは肘までしかない腕で額を拭った。彼女は様々な問題に直面していた。正式な教育を受けていない未亡人が、一体どうやって4人の子どもと身体障碍者の母親を養うのか? 家を壊され略奪に遭った女性が人生を立て直すには? 健常者であっても苦しい生活を強いられる田舎の村民が障碍者のための行政サービスのない国で暮らすにはどうすればいいのか? 恒久的な障碍を負った農民に、どうやって土地を耕せというのか? つまり、腕を失ったマリー・ズザは、どうやって生きていけばいいのか?

他の被害者たちも、大きなジレンマを抱えていた。無事に家に帰れたとしても、診療所も学校もない村には、略奪された店、焼け落ちた家、休閑地があるだけだ。コンゴ民主共和国が抱えるたくさんの問題と同じく、解決の目処はほぼ立っていない。現在の比較的落ち着いた状況は、さらなる虐殺の前兆だとする声も多い。「ヘマとレンドゥは完全に決裂しました。彼らが築いたささやかな平和すら失われたのです」と今年6月、ヒューマン・ライツ・ウォッチのソーヤー部長は説明した。

イトゥリ州チェ村の廃墟で見つけた<イエスは不滅だ>と書かれたポスター. 今年2月, マチェーテの武装集団が村を襲い, 男性, 女性, 子どもを殺害. 家々から略奪し, 火を放った. Nick Turse for VICE News.

4月、私がチェ村に到着すると、政府軍の兵士ふたりに、幹線道路沿いに積もった落ち葉の山に案内された。彼らは、2週間前に立てたという、雑な十字架を指差した。これは、彼らが巡回中に発見した男性の墓だそうだ。発見されたのは、そのとき私が立っていた場所だった。その男性の頭は、ほぼ真っ二つに割られていたという。

墓を後にし、かつて村の中心として賑わっていた大通りを歩いた。今では、黒焦げになった市場の露店や屋根のない建物が残るだけの廃墟だ。友人同士のおしゃべりや子どもたちの笑い声の不協和音は、鳥の鳴き声や風が木を揺らす音になり果てた。この静寂は、反吐が出るような暴力が生みだしたのだ。平和な村には決して訪れない静寂だ。

私の左側には、半壊した精肉店と、略奪に遭い、緑の空き瓶3本しか棚に並んでいない木造の露店がある。別の焼け焦げた建物の片隅には、2、3着の服と〈イエスは不滅だ〉と書かれたしわくちゃのポスターが残されていた。女性モノのスカートと左右ばらばらのサンダルが、半壊し、ドアも破られた家のなかに落ちていた。別の建物のなかでは、前ローマ法王のベネディクト16世(Benedict XVI)とカビラ大統領の会談を記念した、2009年のカレンダーがあった。2001年に就任したカビラ大統領は、暴力的手段をもって選挙を回避している、と非難され続けている。今回の襲撃もそうだったのだろうか。

その後まもなく、遠くから何かが聴こえた。小規模な銃撃戦のようにも聞こえたので、荒れはてた家の外に出ると、同行していた兵士のひとりと目が合った。言葉が通じないので私は自分の耳を指差し「今の音が聴こえたか」と身振り手振りで尋ねた。

彼は頷いた。

そして遠くを見つめた。