Posts By VICE Japan

〈日常〉と〈原爆〉を繋ぐアニメーション映画『風が吹くとき』

1945年8月6日、3日後の8月9日に原子爆弾が日本に投下されてから、73年のときが過ぎた。当時を生きた当事者たちのことば、記録映像、骨組みがむき出しになった原爆ドームなど、原爆投下の事実を後世に伝えるため、原爆の爪痕はさまざまなかたちで記録されている。しかし、あまりに辛く、悲しく、むごい記録を目にすればするほど、現実味が失われ、まるでフィクションの出来事のような気がするのはなぜだろう。関東で生まれ育ち、広島、長崎をいちども訪れた経験のない私にとって、いちばん身近な原爆の記憶は、当時撮影された実際の映像でも、写真でもなく、小学生のときに観た、あるアニメーション映画だった。

英国作家、レイモンド・ブリッグス原作の『風が吹くとき』(When the Wind Blows)では、英国の片田舎で暮らすジムとヒルダの穏やかな生活が、柔らかいタッチで描かれる。数日後に戦争が起こり、原爆が投下されるという情報を仕入れたジムは、州議会の発行するパンフレットの指示に従い、日用品で核シェルターを自作し、そのときに備える。

この映画を初めて観たのは小学生のときだった、ということは覚えているが、家で家族と観たのか、学校の授業で観たのかは覚えていない。最初から最後まで、いつもと変わらない会話を続ける能天気な夫婦が登場すること、物語が進むにつれて、その夫婦の顔色がどんどん悪くなっていくことだけは、強烈に覚えている。原爆とはなんなのか、この映画は何を伝えたいのか、ラストで夫婦はどうなったのか。当時の私には何ひとつわからなかったが、85分の映画を観終えたとき、とにかく心がずしんと重くなり、それ以来、記憶の片隅にこびりついた『風が吹くとき』を、私は何年経っても忘れられなかった。

なぜ、自分の住んでいる日本ではなく、英国の田舎を舞台にしたフィクションが、私にとっていちばん身近な原爆の記憶なのだろうか。私は約15年ぶりに『風が吹くとき』を観てみることにした。

改めて観た『風が吹くとき』は、ものすごく長く感じた。最初から最後まで、とにかくゆったりと物語は進む。熱線で皮膚が溶けだしたり、黒焦げになったヒトがあたりに転がっている、といったショックな描写はなく、情緒に訴えるBGMで煽ることもない。ただただゆるやかに流れる日常のなかで、夫婦は徐々に衰弱し、1歩1歩死に近づいていく。長い長い85分の物語を観終え、ぼんやりとした気持ちでエンドロールを眺めていたときにやっと気付いたのは、劇中で〈特別なこと〉は何も起きていない、ということだった。

流れる雲。 「あなたの歳じゃ、もう召集されないわよ」と話すヒルダ。家じゅうのドアを使って自作した核シェルターを「なかなか居心地がいい」と自画自賛するジム。原爆投下の直前に始まってしまう夫婦の口喧嘩。互いの無事を確認し、繋がれた掌。原爆が投下されるのは、確かに特別なことかもしれない。だが、『風が吹くとき』は、原爆投下を〈非日常〉としては描いていなかった。掃除をして、食事をして、会話をして、夫婦が共に生きていくなかに、戦争があり、原爆があり、死があった。

自分の好きな仕事をして、気の合うひとと結婚して、子どもを産んで、大切な家族のそばで穏やかに過ごす。小学生の頃に観たときは気づかなかったが、原爆が落ちる前の夫婦の姿は、私が幼い頃から漠然と期待している、将来の私の日常によく似ている。だからこそ、私はいつのまにか、夫婦の日常と私の将来の日常を重ねていた。しかし、私は、私の日常のなかに原爆による死があるとは、当然ながら想定していなかった。夫婦の日常に原爆が投下されたことで、私の日常にも、原爆投下の事実が突きつけられたように感じたのだ。

いつから私は、日常と原爆を切り離して考えるようになっていたのだろう。実際の映像で、写真で、フィクションの映画で、ドラマで、ゲームで、名前も知らない誰かの〈死〉に嫌という程触れてきたせいで、感覚が麻痺し、より刺激の強いコンテンツを求めるようになってしまったのかもしれない。そして原爆の記録もまた、悲惨であればあるほど、原爆は日常から遠く離れ、私にとって単なる刺激の強い、目を背けたくなるコンテンツでしかなくなってしまっていた。

平和ボケだと責められるかもしれないが、平和で平穏に流れていく自分の日常と、自分の体験していない辛く悲しくむごい記録を結びつけて考える力が、私にはまだ足りない。今後、当時を知る当事者もどんどん減り、新しい世代は、原爆と自分の日常とを結びつけて考えることがさらに困難になるはずだ。そんな次世代に、私がなにか意義のあることを語れるかどうかはわからないが、原爆が投下され、なにもかもを奪い去るほどの強い風が吹くそのときは、私たちの日常の延長線上に訪れる出来事だということを忘れないでいたい。

中国少数民族〈ミャオ族〉からみる伝統継承と経済発展と民族問題

牛の角を模した冠と蝶の文様が入った首飾りは純銀製。揺れるたびに、「シャンシャンシャン」と心地いい音が鳴り響く。衣装の総重量は15キログラム。ミャオ族は、中国西南部貴州省の山岳地帯に全900万人のうちの約半数が暮らす。〈精霊信仰〉〈独特な装飾技術〉〈古代中国の悪神の末裔〉など、歴史家や民俗学者などから語られる彼らのさまざまなルーツは、2010年代になっても解明されていない。

彼らは現在、民族的アイデンティティの岐路に直面している。

「ミャオ族の伝統の担い手は、かなり減りました。ですが、彼らは優遇されています」

そう語るのは、貴州省で少数民族のガイドや通訳を務める漢民族女性。中国は、総人口14億人の90%以上を占める圧倒的なマジョリティの漢民族と、その他、55の少数民族で構成される多民族国家だ。最西端の新疆ウイグル自治区には、イスラム教系のウイグル族や回族、ロシア系のタタール族などが分布している。朝鮮半島や極東ロシアと接する東北地方には満族や朝鮮族が、東南アジアと関係の深い西南部にはベトナムやタイなどと共通する民族が生活圏を築いている。
〈中国最後の秘境〉といわれる貴州省は、バックパッカーの聖地雲南省などと接する。17の少数民族が暮らす、面積の80%以上が山と丘陵地帯だ。長らく中国最貧地域だったが、現在、開発やIT化の波が押し寄せ、2017年は中国で最も高い10.2%のGDP成長率を記録している。それにともない同地では、少数民族のマイノリティとしてのアイデンティティや独自性が揺らいでいるという。

ミャオ族は漢字で〈苗族〉、ベトナムやラオス、タイでは〈モン族〉と呼ばれる。映画『グラン・トリノ』(Gran Torino、 2008)で、ミャオ族は、クリント・イーストウッド演じる孤独な老人と触れ合うアジア系移民として描かれている。

口承の記録しかない太古の時代から、ミャオ族の歴史は、流浪と苦難の連続だった。一説では、紀元前2500年頃、神話上の〈涿鹿(たくろく)の戦い〉で黄帝に敗れた悪神〈蚩尤(しゆう)〉の子孫だといわれる。戦ののち、漢民族から追われるように中国の北方から南下し、その後もたびたび敗走。6~7世紀に現在の貴州省あたりに至り、山岳地帯に逃げ込んだ。さらには清代の18~19世紀頃、清朝による同化政策に抵抗して、しばしば反乱を起こした。その頃に山を越えてベトナムやタイ、ラオスなどに分布したという。

ミャオ・モン族史のなかでも、最も悲惨な出来事は、ベトナム戦争だ。ホー・チ・ミンが北ベトナムに建国した社会主義国家、ベトナム民主共和国が、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)に武器を供給するための兵站〈ホー・チ・ミン・ルート〉を絶つため、米CIAによりモン族は武装化された。さらに、ラオスの共産主義革命勢力〈ラオス愛国戦線(パテート・ラーオ)〉との戦いにも駆り出される。北ベトナム軍やパテート・ラーオ側についたモン族もいたため、同一民族同士での殺し合いも余儀なくされ、ベトナム戦争でのモン族の戦死者は数十万にのぼったという。そして、米軍の撤退後、モン族はラオスやベトナムの共産主義勢力に虐殺された。多数のモン族が難民化し、そのうち数十万人がタイや米国に逃げたのだ。

そのように悲劇の歴史を経験してきたミャオ族が、数百年に渡る山岳地帯での潜伏期間につくりだしたモノには、山を開墾した棚田、保存に優れた発酵食品、竹管楽器の蘆笙(ろしょう)、銀細工や緻密な刺繍を施した独特の民族衣装などがある。とくに女性用の衣装は、世界各地の民族衣装と比べても独特な存在感を放つ。

衣装は主に上着、エプロン、帯、スカートで構成される。それらにびっしりと施された刺繍のモチーフは、蝶、龍、虎、鳥、虫、花、ヒマワリの種、魚、太陽、渦巻きなど。ミャオ族は独自の文字を持たず、民族の歴史や魔除けを意味する文様を刺してきた、とガイドの女性が語る。

「ミャオ族は蝶を祖先だと信じています。神話では太古の時代、蝶が12個の卵を産みました。山では虎が、川では龍が生まれ、最後の2つからミャオ族の祖先の人間が生まれました。そして、彼らは龍や虎を同族だと思っています」

ミャオ族は、祖先のために、なによりも蝶を頻繁に描く。卵がかえって羽化する過程を生まれ変わりと捉え、再生のシンボルとして崇拝する。

龍は、天から豊かな水をもたらす象徴であり、幸運を意味する。皇帝の地位や権威を象徴するために龍を用いる漢民族とは異なっている。

虫や花も自然の豊かさの象徴だ。たとえばムカデは、足の多さから富を、トウガラシの花は、子だくさんを意味する。そして、渦巻きは、祖先の地である中国北方の黄河の渦を表しているという。そういったモチーフをお守りとして、悪霊から子を守るために母が縫う。

衣装は一からすべて手づくりだ。まずは生地づくりから始まる。布を藍染めし、卵白と新鮮な豚の血を塗り叩いて定着させて光沢を出す。その布で上着などをつくり、袖、襟、背中などに、ひと針ずつ刺繍を施していく。刺繍パターンは数十種類あるといわれ、1着につき少なくとも2~3パターン、10パターンほど入れる場合もあるという。

立体的に刺す基本の〈平繍(ピンシュウ)〉、ひと針ごとに玉をつくり、点描のように模様をつくる〈打子繍(ダーズゥシュウ)〉、三角形や四角形の布を何層も重ねる〈堆繍(ドィシュウ)〉、2本の組紐で縫う〈双針繍(シュワンジェンシュウ)〉、クロスステッチと同様の〈十字繍(シーズゥシュウ)〉、金属のスズを縫い付ける〈釘錫繍(ディンシィシュウ)〉などなど。さらには、ろうけつ染めやパッチワーク、アップリケなど技法や生地の組み合わせで居住地域が区別される。

「貴州省には、100以上のミャオ族がいます。〈花苗〉〈黒苗〉〈紅苗〉〈白苗〉〈長裙(ロングスカート)苗〉〈短裙(ミニスカート)苗〉など、女性の衣装の色や特徴で区別しているのです」

山岳地帯に散り散りに籠ったミャオ族は、支系同士でもあまり交流がなかったという。しかし、龍や蝶といった民族の伝説を共有しているのが興味深い。また、衣装製作は母から娘に継承され、その習慣がミャオ族の間で共通しているのも特徴的だ。

「娘が結婚するとき、母が1年以上かけて、ひと針ずつ刺繍を入れて衣装をつくります。ミャオ族の女性は死ぬとき、母からもらった衣装とともに棺に入り、土葬されるんです。彼女たちには命と同じくらい大事なものです」

盛装時に着用する銀飾りにも意味がある。

「頭の冠は、ミャオ族の神様である牛や鳳凰をかたどっています。銀の飾りは山道で猛獣と遭っても光って襲われない、体調が悪いと変色して自分の病気がわかるといわれています。娘が産まれると銀飾りを用意するのですが、これも死ぬときには刺繍の衣装と一緒に棺に入れます」

このように、産まれてから死ぬまで、民族衣装とともに生きるミャオ族。民族のアイデンティティも、この独特な装飾技術の継承にあるという。しかし近年、その伝統に陰りがみえてきたようだ。ガイドの女性がいう。

スマホを持つ<トン族>の女の子。トン族も貴州省に多く生活している少数民族のひとつ

「刺繍の担い手が、かなり減りました。ミャオ族では、刺繍の上手な女性は良い結婚相手に恵まれたのですが、最近では都市に出稼ぎにいったり、観光地のレストランで働いたりします。現金収入を得る手段が増えたのです。また、若い人たちの半数ぐらいは、出稼ぎや進学で村を出ていき、そのまま帰ってきません」

貴州省は長らく国内ワーストクラスの貧しい地区だった。経済成長で取り残されてきたが、ここ数年でIT産業が発展。台湾フォックスコンなどのビッグデータセンターが設立されるなど、2014年以来、〈クラウド貴州〉なる戦略が進んでいる。それとともに同省は、開発のピークを迎えている。高速道路が延び、村への道が開通することで、たったの1年で村の風景がガラリと変わるという。そして、急速に観光地化が進んでいる。観光客の多くは漢民族だ。もちろん、少数民族に恩恵がある。

「ミャオ族で1番人気の村では、入村料に1人100元(約1700円)を取ります。ほかに民族衣装や工芸品の販売などで月に2000元(約34000円)くらい稼げるので、出稼ぎから人がだんだん戻ってきました。それぐらい稼げれば、この村なら生活できます」とガイドの女性が胸を張る。

中国農村部の開発は、1999年の〈西部大開発〉政策による。都市部と農村部の格差を解消するためだったが、観光開発ブームが起こり、民族文化村が次々につくられた。祭り、民族衣装、習俗、食べ物、民間信仰など、あらゆるものが、観光資源化されてきたのである。その過程で、ミャオ族の刺繍が観光客に〈ウケやすい〉ものに変わっていった、という指摘もある。文様にまつわる神話なども補強されていった可能性もあるようだ。
2017年、貴州の温泉地剣河県に、高さ66mの女神像が建造された。それに先立ち剣河県政府は、仰阿莎(ヤンアシャ)というミャオ族の女神を二次元美女キャラクター化し、グッズのライセンスビジネスに乗り出している。あの手この手で観光資源を発掘し、ビジネスチャンスを狙っているのである。また、スマホの普及が少数民族の生活に大きな変化をもたらしている。

「ミャオ族の人たちも経済の発展で生活が変わってきました。ミャオ族は、これまで土地から自由に移動することを制限されていたので、積極的に他の民族と結婚してきませんでした。しかし、今の若い人たちは土地に縛られず、より自由な結婚をしています。異民族間で結婚すると、その子はどちらの民族なのかという問題が出てきますが、政府も少数民族を優遇して、その子供が18歳になると、自分が属す民族を選べるようになりました。これから、彼らは他の民族ともっと混ざっていくでしょう」

ガイドの女性がいうように、ミャオ族と他民族との結婚が増えてきたという。その背景には少なからずスマホの普及が影響している。〈CNNIC(China Internet Network Information Center)〉が発表した〈Statistical Report on Internet Development in China 2017〉によると、中国のモバイルインターネット利用者数は約7億人。そのうち、地方での利用者は約2億人を数えるという。開発とともにスマホが急激に村に浸透した結果だろう。
スマホを操るミャオ族や少数民族の若者と各村で出会った。彼らが夢中なのは、オンラインゲームや〈WeChat〉。WeChatはユーザー数10億人を越える中華製のSNSアプリだ。Twitter、Facebook、Instagramなど、あらゆるSNSアプリが合わさったようなものだ。特徴的なのは、電子決済や出会い機能があること。

そのような環境で若者たちは伝統的な祭りや民族衣装より、スマホがもたらす最新情報に関心があるようだ。

〈姉妹飯祭り〉という年に1度のミャオ族最大の祭りがある。若い男女が出会う機会であるこの祭りでは、盛装した女性が色とりどりの〈姉妹飯〉というもち米を用意。気に入った男性にはアメ入りを、お断りだとニンニク入りを手渡す。しかし、今やこの祭りも観光のための祭りになっているという。男性は不参加。盛装した無数のミャオ族女性が会場を練り歩き、踊るという内容に変わっている。それでは、彼らはどこで恋人をつくっているのかというと「WeChatを使って、祭り会場とは別のところで若い男女が会っているようです」とのことだ。

また、学校教育によって世代間のつながりが薄まりつつあるのも、ミャオ族のアイデンティティを揺るがす大きな要因の1つだ。

「今の子供たちは、学校で北京語をもとにした〈普通話(プゥトンホア)〉を学びます。普通話はいわゆる標準中国語。一方、老人たちの世代にはミャオ語しか喋れない人もたくさんいるので、家ではミャオ語、学校では普通話で会話をします。すでにミャオ語を理解できない世代もいます」

言語の統一化は、1949年に中華人民共和国が建国してすぐに始まった。中国の民族政策は、建前として少数民族と漢民族の間に差はなく、平等をうたっている。しかし、そのいっぽうで、数千年の歴史で各民族が一体化し〈中華民族〉が生まれた、とも定義している。そのため、中国の少数民族は、中華民族に属する各民族、という位置づけだ。現在では大学進学や就職する上で、普通話が求められるという。

ここでいう中華民族とは、漢民族を中心に想定されている。中国では、すべての地域で漢民族を中心にした政策が取られてきた。各省に漢民族を移住させ、民族を融合させようという動きが一貫している。ウイグルやチベットでは、漢民族との結婚を奨励し、医療保険の補助や住居などを優遇される政策もあるという。同地区でたびたび反発が起こるのも、こうした漢民族の介入への抵抗からだ。

では、ミャオ族はどうか。ガイドの女性がトーンを落として話す。

「(ウイグルやチベットで)民族問題があるのは知っていますね? 彼らには宗教があるから問題が起こります。ミャオ族には宗教がありません。彼らは大人しく、漢民族と良い関係を築いています。あっち(ウイグルやチベット)は難しいです」

民族問題は中国が抱える大きな火種だが、そもそも、中国における民族の区分け自体が曖昧なものだったという。ガイドの女性が説明する。

「1950年代、政府は居住地域を元に民族を区分しました。なかには、自分が本当はどの民族なのかわからないまま、政府の民族政策を受け入れた人たちもいます」

中国は建国後、数回に渡る民族識別工作を経て、民族をつくり上げた。その時、400以上の民族が発見されたが、最終的に55の少数民族にまとめられた。なかには民族の識別から漏れたグループ、分類に反発する人々もいるという。たとえば、ミャオ族の支系とされている人口5万人ほどの〈革家(ゲージャー)〉は、自分たちをミャオ族ではなく、ひとつの民族だと認識している。しかし、民族として独立するのは難しいようだ。ガイドの女性は言い難そうに話す。

「政府は、民族の問題が起こらないよう、今の状態を維持しようと努めています。ひとつの民族の独立を許してしまうと、他の民族も認めなくてはなりません。難しいんです。ミャオ族は協力的なので、政府も優遇して開発や観光地化を進めています」

ミャオ族は、政府の政策に協力的だから開発が進んでいるという。そして、この「少数民族は優遇されている」という言葉は漢民族からも、よく聞かれた。

中国のネット上では最近、〈少数民族特権〉なる言葉があるという。漢民族の男性から興味深い話を聞いた。中国の大学を卒業後、日本にいる親を頼って1年間日本で遊学している20代前半の男性の話だ。

「マンションや不動産を持っていないと漢民族の男は結婚できません。少数民族にはそういうことがなく、一人っ子政策も適用されませんでした。大学入試でも漢民族より点数が低くても入学が許されます。少数民族は優遇されています」

彼は長男として生まれたが、一人っ子政策によって両親と別れて親戚に育てられた。両親は姉を連れて仕事の関係で日本に渡ったため、離ればなれに暮らしたという。日本に来た理由を聞くと「中国の就職活動が厳しく、就職状況が落ちついたら帰るつもり」だという。

現在、高等教育を受ける人口が増加中の中国では、大学を卒業しても就職できない若者が増えているという。急激な経済発展とともに、中国社会で新たな問題が生まれているようだ。

また、こんな動きもある。中国では今、ミャオ族の祖を殺したとされる漢民族の祖先、黄帝を讃える〈黄帝崇拝〉が顔を覗かせているという。中華民族の愛国心を鼓舞するよう、2013年から習近平国家主席が掲げているのだ。

国内で高まる民族主義と、確実に薄まっていく少数民族の血。実際、ミャオ族の村にいた少年たちは漢民族、ミャオ族、その他の少数民族と、さまざまな民族が混ざっているように見える。見た目だけでは、どの民族なのかほとんど分からない。

「少数民族と漢民族をどう見分けるか?」と聞くと、漢民族の男性は少し悩みながらこんな答えを返してきた。

「どう見分けるか? そうですね。1番確実なのは、身分証の〈民族欄〉を見ることです」

伝統、経済、民族。時代に翻弄されながらも、したたかに生きてきた少数民族〈ミャオ族〉。当の彼らは生活が激変する今を、どのように捉えているのだろうか。ある村で1人の少年にカメラを向けると、こんな言葉をかけられた。

「写真を撮るなら金をくれ!」

沖縄戦の「集団自決」とは何か? 1945年3月28日、渡嘉敷島で──。

8月8日、沖縄県の翁長雄志知事が膵臓がんで死去。67歳だった。保守派だった翁長氏が辺野古新基地建設を推し進める政府と対立するようになるきっかけは、第一次安倍政権だった2007年、高校の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」の軍強制に関する記述が削除されたことだった。集団自決とは何か──。16歳のときに渡嘉敷島でこの惨劇を体験した金城重明さんの証言を紹介する。

金城重明さんは1929年生まれ、沖縄県渡嘉敷島渡嘉敷村字阿波連出身。現在89歳。金城さんは1935年より小学6年間を字阿波連の学校に通い、その後、字渡嘉敷の国民学校高等科(2年間)に徒歩40分かけて通った。海軍に入りたくて勉学に励んだ金城さんだったが、腎臓を患って軍人への進路を諦めた。
1944年9月、日本陸軍の海上挺身戦隊と海上挺身基地大隊が慶良間諸島に配備された。海上挺進戦隊の任務は、艇首に炸薬を搭載した小型のベニヤ製モーターボートで沖縄本島に向かう米軍艦船に特攻することだった。島々は特攻艇の秘密基地となった。

慶良間諸島では、1945年3月26日に座間味島と慶留間島で、28日に私が住んでいた渡嘉敷島で集団自決が起こりました。渡嘉敷では320余名、これに座間味と慶留間を合わせると610余名の人たちが集団自決を遂げました。
私たちは集団自決とは言わないで、「強制集団死」という言葉を使うのですが……。
米軍が渡嘉敷に上陸したのは3月27日ですけども、そのまえに空襲と艦砲射撃で島のすべてが焼き払われて、毒蛇のハブ1匹いなかったですね。
27日の夕暮れ時に私たちは阿波連を出て、豪雨のなか、夜間ずっと道を探しながら歩き続けました。歩いたこともないところですから、大勢が一緒に固まって山をあがっていき、28日の夜明けまえに島の北部、日本軍のにわかづくりの陣地近くに着きました。私の家族は両親と兄、私、弟、妹の6名です。ときどき艦砲射撃がありましたし何が起こるかわかりませんから、非常に緊張していました。ここで最期を遂げるかもしれないという予感がありました。
夜が明けて2〜3時間たったころ、軍の命令で私たち住民は恩納河原という窪地に移動し、一箇所に集められました。さほど広くはない場所です。住民を保護する意図もあったでしょうが、最終的に保護できない状況になったら、自決を想定していたのではないかと思います。小さい子供たちは泣いているし、みんな不安そうにしていました。
すると渡嘉敷の村長が「天皇陛下万歳」と三唱し、住民もそれに倣って三唱しました。当時、戦地における天皇陛下万歳は、天皇のために命を捧げることを意味します。「自決」という言葉を使わなくても、村長による自決の命令に等しいのです。そして村長も軍に命令されていたわけですね。村長の独断だった、軍は命令しなかったという人がいますが、村長は軍からの連絡がなければ、住民を死に追いやるはずがありません。
死ななければならないことはわかっていましたが、私はまだ16歳になったばかりでしたから、実際にどうしたらいいのかわかりません。それで少し高いところから大人たちの様子を見ていました。
役場の職員が手榴弾を配りました。正確な数はわかりませんが、20〜30個だったと思います。少なかったので、すべての家族に行き渡ったわけではありません。うちの家族にはありませんでした。しかも、実際に爆発した手榴弾は少なかった。

渡嘉敷島の集団自決における軍命の有無については諸説あるが、軍命があったとする説を補強する事実のひとつに、この手榴弾の住民への提供が挙げられる。家永三郎・元東京教育大学教授が起こした第三次教科書訴訟第一審(1984〜1989)において、金城さんは次の証言を行なっている。
〈実は、当時の役場の担当者に電話で確認をとりましたら、集団自決が起こるだいたい数日まえですね、日にちは何日ということはよくわかりませんけれども、日本軍のたぶん兵器軍曹と言っていたのでしょうか、兵器係だと思いますけれども、その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持ってきて、手榴弾をもう手渡していたようです。1人に2個ずつ、それはなぜ2個かと申しますと、敵の捕虜になる危険性が生じたときには、1個は敵に投げ込んで、あと1個で死になさいと。ですから、やはり集団自決は最初から日本軍との関わりで予想されていたことがわかるわけです。さらに集団自決の現場では、それに追加されて、もう少し多く手榴弾が配られていると〉

そして異常現象が起こりました。渡嘉敷村の阿波連の集落の区長さんが、家族に手をかけた……。区長さんは木の枝をへし折って小さな枝を取り除いて、棍棒のようにして持ちました。何をするのだろうと思ったら、自分の妻子に棒きれを振るいだした。殺しているんです。あぁこれか、と思いました。

──「これか」とは?

ここで玉砕するんだな、と。あのころの私は「自決」という言葉を知りませんでした。自分もこういうふうにしなければいけないと悟ってショックでした。

── 自決が始まったとき、止める人はいませんでしたか?

止める人はいなかった。捕虜になるのは不名誉なことだと考えていましたから。当時は命の尊さ、命の重さは教えられていない。それが日本の軍国主義教育なんですよ。

── 区長さんが使った木の枝の長さや太さを憶えていますか? 野球のバットと比べると。

もっと長くて細かったです。すると以心伝心というか、住民たちが木切れで叩いたり、鎌で頚動脈を切ったりして……どんどん自決が広がっていきました。私は兄とふたりで大声を出しながら、母と妹、弟に手をかけました。頭部に石をぶつけることもして。母に手をかけたときは、やはり……泣きました。父もそこで死にましたが、最期の状況はわかりません。弟は満6歳。3月でしたから。まだ学校にあがっていません。妹は4月から4年生です。母は40代で、父は50代です。
兄は19歳、私は16歳になったばかりでした。

── お母さんは覚悟されていたのでしょうか?

覚悟はしています。泣いていましたけどね。周囲には「殺してくれ!」と死の手伝いを呼んでいる人もいました。兄と私は血気盛んな少年でしたから、ほかの人にも手を貸していくわけです。最後には自分たちも死ぬ覚悟で、兄に「僕を先に殺ってくれ」と相談までしていました。……していたんですけども、生き延びてしまった。
ひとりの少年が現れて「米軍に斬り込もう」と言いました。じゃ、そうしよう。どうせ死ぬなら自ら命を絶つよりは、ひとりでも多くの米兵を殺そう。皇民化教育で徹底的に洗脳されていましたから、彼らに危害を加えるのがお国のためだと決意しました。私たちが歩きだすと、小学校6年生の女の子が3名ついてきました。「お前たち、女の子じゃないか。ダメだ」と言っても聞かないので、グループになって自決の場を出たんです。
ショッキングなことがありました。てっきり死んだものだと思っていた村長以下、大勢の住民が生きていたんです。彼らの姿を見た私は、米兵を殺して自分たちも死ぬ決意をしていたのに、また生き延びてしまった。
その後も空爆が続いていましたので発見されないように山にこもりました。食べ物がありませんから、海に降りては海産物や漂着した米軍の食糧を拾ったりして生き延びました。避難生活に入ってどのぐらい日がたったかわかりませんが、あるとき、食糧を調達しに行った先で私は米兵に遭遇し、両手を挙げて降参しました。10名近く若者たちが男子も女子も捕らえられ、米軍の水陸両用トラックに乗せられて収容所に護送されました。トラックが海に降りたときは、沈められるのかと不安になりました。渡嘉敷港から上陸して収容所に入れられて、そこで8月15日を迎えました。敗戦のニュースを聞いてね、そのときの心境は、ああ、よかったと。日本軍が残酷なことしたのを知っていましたから。

── 捕虜になるとき、殺されると思いませんでしたか?

そのまえにも米軍と遭遇したことがあって、そのときに彼らがわれわれ非戦闘員の安全を保障するのを知りました。鬼畜米英ではなかったんですね。

── お父さんはどんな方でしたか?

おとなしい人でした。視力が弱かったので、昼間は自分で歩けますが、夜間の移動は不自由していました。

── 金城さんはご両親のどちらに似ていましたか?

母のほうによく似ているんじゃないですかね。兄は父に似てました。

── お母さんはどんな方でしたか?

……はっきりものを言う人で、しかもやさしさがあって。父にも母にもあんまり怒られた覚えはないですね。

── 戦争が激しくなるまえの島の生活について聞かせてください。楽しいこともありましたか?

豚とヤギを飼っていて、ヤギに草を与えるのが楽しみでした。午後はヤギの草刈りで忙しいんですよ。草を刈るときはハブに気をつけなきゃなんない。とぐろを巻いていました。あとは、海に行ってですね、潜ってサザエを捕ったり。これは草刈りよりも少し楽しかったです。サザエは実は食べて、殻は売ればお金になります。
あのころ、島での生活は裸足でした。戦時中、沖縄戦が始まるまえに那覇に行ったことがあるんです。船を降りて那覇の街を裸足で歩いていて交番に引っ張られました。それで地下足袋を履いた。そういう時代でした。

── 当時、人は死んだらどうなると思っていましたか?

うーん……そうねぇ。命は捨てるもので、死んだ先にどうなるとか考えなかったですね。喜んで死ぬだけです、天皇の臣民としては。戦争中、人間の命は虫けら以下です。虫けらのほうが殺されないで生きていた……。
死後のことは、戦後になってキリスト教に入ってから教えられました。死に向かって生きるということは一人ひとりの課題です。クリスチャンは永遠の命を目指して、希望をもって向こうに行っちゃうわけですよ。信じてお任せする。これが我々の信仰です。

── 1945年3月28日の体験について、戦後にお兄さんと話をされましたか

そのことには触れなかった、お互い……。2009年に兄は亡くなりました。もう歳でね。

── 島で集団自決のことはタブーで、いまでも皆さん話さないそうですね。

話はしないですね。僕はタブー視していないけど、お互い触れないことにしています。あんまり言いたくないけど、命令をした村長は生き延びました。彼は島の人じゃなく他町村の出身で、軍人あがりでした。

── お子さん、お孫さんは何人いらっしゃいますか?

3名です。孫は6名かな。

── 今日お聞きしたようなことをお子さんやお孫さんにも話されてますか?

あまり話さないですけど、たまには。大きい孫もいるし。でも、事実を聞かされたほうはショックでしょうね。でも、私が話すことは、生き延びた人間の務めだと思うんです。戦争は、神に対しても人民に対してもいちばん残酷な行為、そして最大の罪です。二度とそんな戦争をしてはいけない。これは自分への戒めでもあるし、ほかの人たちへの警告でもあるわけです。

金城重明(きんじょう・しげあき)
1929年生まれ、沖縄県渡嘉敷島出身。55年、青山学院大学文学部キリスト教学科卒業。60年、ユニオン神学大学(ニューヨーク)修士課程卒業。日本キリスト教団糸満教会(55~58)並びに同首里教会牧師(60~75)。沖縄キリスト教短期大学創設(57)以来、94年3月定年まで、講師・教授として教鞭をとる。著書に『「集団自決」を心に刻んで─沖縄キリスト者の絶望からの精神史』などがある。

五十路を迎えて羽化し、美しく翔んだ 自撮り熟女、マキエマキの写真と人生

©マキエマキ

自撮り熟女として多くのファンの心を摑み、話題が話題を呼んでブレイク中のフォトグラファー、マキエマキ(52歳)。エロの目覚め、男性恐怖症、バブル、写真との出会い、徒弟制度、自立、結婚──。彼女が語る人生のシーンを繫ぎ合わせ、マキエマキの自撮り写真の〈出生の秘密〉を想像する。

マキエさんは1966年生まれですね。私も同い年で、丙午(ひのえうま)です。丙午年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるというヘンな迷信があって、昔は惑わされる人が多くて出生率が低かった。受験や就職の競争率が低かったので、おっとりした世代みたいに言われていますが。

私は丙午ですけど2月生まれで、学年が1コ上なので逆に子供が多かったんですよ。

そうでしたか。ご出身はどちらですか?

生まれは大阪です。平野区という、わりと下町に住んでました。でも6歳で千葉に来ているので、大阪はそんなに長くないんです。

以前、展示会場でお話させていただいたとき、親戚の人たちからちょっと変わった子供のように扱われていたとお聞きしました。

そうです。なんでなんだろう? でも、とにかく爪弾きにはされてました。

目立つ子供だったんでしょうか。

目立ってましたね。

ハッキリものを言う子だった?

そうです。見ちゃいけないものがすぐ目に入っちゃったりして、嫌な指摘をする子供だったみたいです。いまでもハッキリものを言いすぎるから気をつけろと言われるんですけど、まわりくどく言うのが嫌いなんです。

以前、展示会場でお目にかかったとき、プロのフォトグラファーになるまえはイベントコンパニオンのお仕事をなさっていたとお聞きしました。それはいつごろですか?

23歳ぐらいからで、実は写真のアシスタントをやりながらもずっと続けていたので27、8ぐらいまでやっていました。

そういうお仕事は儲かるらしいですね?

そりゃあ、凄かったですよ。当時バブルの真っ盛りだったので。一日3万円ぐらい貰って、月50万ぐらい稼いでました。所属していた事務所がパーティも請け負っていたので、パーティコンパニオンもやってたんですよ。イベントが何時に終わるからパーティも行ってくれるよね、みたいな感じで。

どんなイベントが多かったですか?

美容器機とか、建設機械もありましたし、けっこういろいろ。

パーティは?

企業のパーティです。いちばん多いのが正月の賀詞交換会。挨拶会ですね、集まって名刺交換をする。あとは、ビルの落成式。

賀詞交換会だったら何人ぐらい派遣されるんですか?

多いときは例えば、新高輪プリンスの飛天の間を使ったりするので、お客さんが1000人ぐらいでコンパニオンが100人とか。

コンパニオンをやっていたマキエさんが写真を志すようになったきっかけは?

山です。案外地味なんですよ、そこは。

本格的な登山ですか?

そうです。北アルプスを縦走したり。

登山会に入って?

いえ、ひとりで勝手に。

山はどうして?

新田次郎の小説が好きで、それで登ってみたくなったんです。

1冊挙げていただけますか?

う〜ん、どれだろ……『聖職の碑』とか、あのへんが好きかな。

山から写真に繫がったのは、山の写真をきれいに撮りたかったからですか?

はい。それで写真学校に行きました。23歳から2年間。

コンパニオンをやっているから学費は稼いだお金で──。

そのお金でまかないました。写真学校では商業写真科に入って、そこで写真家の師匠と会いました。山岳写真をやりたかったんですけど、さすがに体力的に難しいなと思って、もうちょっとゆるいふつうの風景写真のほうに行って。

写真の話に深入りするまえに、もう少しさかのぼらせてください。1989年、23歳でコンパニオンをやりながら写真学校に通いはじめますけども、そのまえは何をやってたんですか?

プー(プータロー/プー子)です。実家暮らしだったのでプーで大丈夫だったんです。

そのときは何かやりたいことはありましたか?

演劇をやりたい気持ちはありました。野田秀樹さんの夢の遊眠社がリアルタイムとか、そんな時代だったので。中学のときから演劇が好きで、高校生のときから観に行ってました。20歳ぐらいで小さな劇団に入ったんですけど、あまりにもド貧乏で悲しくなってやめちゃったんです。

演じることに興味があったのでしょうか?

ありました。演出や脚本にも興味があったんですけど、容姿がそこそこだったので演じるほうにまわされて。

Twitterに若いころの写真をあげていましたね。かなりモテだろうと思いました。

いや〜凄かった。本当にもう、不要な男性がいっぱい来るんです。

それはいつごろから?

高校卒業後です。電車でいきなり電話番号渡されたり、知らない人にあとをつけられたり。バイト先の男性や、バイト先の隣のビルのオーナーに熱心に誘われたりとか。もう男性恐怖症ですよ。凄くトラウマになっていて、いまだにちょっと残ってます。

次ページはコチラ。

福岡から世界のインターネット・コレクティブへ〈YesterdayOnceMore〉

福岡を拠点とするインターネット・レーベル〈YesterdayOnceMore〉。2013年にスタートし、レーベル主宰者のshiggeをはじめ、豊富な音楽的経験と知識からレーベルを支えるcsk、創設メンバーであるHB、Machete、Mactuve、イベント〈Summer War Game〉を主催する103i、米国でも活動しているPhüeyとDJ NHK Guy、そしてスイスからはnuitunitなど、刺激的な〈new sounds, new beats〉を発表。更に東京のインターネット・レーベル〈cosmopolyphonic〉や〈TREKKIE TRAX〉などともコラボレーションし、今や世界を股にかけてビートを連射する〈インターネット・コレクティブ〉に成長した。

〈インターネット・レーベル〉の強みは、とにかくそのフットワークに尽きる。つくり手は、すぐさま音源を発表できるから、そのときのエモーションをリアルにリスナーに届けられる。「プレスが遅れる」「流通システムのあれこれ」なんて気にせずに、世界のどこにでも自身の音をアピールできるのだ。いっぽう、リスナー側のメリットも計り知れない。「いつでも聴ける」「店に行かなくてもイイ」「ブツが増えなくて助かる」「お手軽」「タダ!!」とかとか…。

ただ、これだけ簡単に音源を発表できる状況になってしまったからこそ、アーティストには力量が求められる。インターネット・レーベルがごまんと存在するなかで、どれだけ埋もれずに、オリジナリティを発揮することができるのか? 耳の肥えたリスナーにブックマークさせることができるのか? そして、そのフットワークは、却って自身の首を絞めているのではないか?

しかし、YesterdayOnceMoreは、〈コレクティブ〉というスタイルを重視し、アーティストそれぞれが、常にYesterdayOnceMoreをアップデートし続けているから本当に強い。絶対的な信頼感と、「一緒に居たいと思わせる〈バイブス〉」(shigge談)により、未来に向かって進み続けている。そしてその輪は、どんどん大きくなっているのだ。

そんなレーベル主宰者のshiggeに話を訊いた。レコードとターンテーブルを片付け、パソコンでの音楽制作に至った経緯、フリーで音源をリリースする理由、そして、今ひとつ盛り上がらない地元・福岡での活動について。ドキュメンタリー映像と共にお伝えする。

まずは、shiggeさんと音楽の出会いを教えてください。

最初に音楽に触れたのは、小学校のときですね。イエモンのCDシングル、8センチの長細いヤツです(笑)。そのあと、中学のときに有線で流れていたEMINEMで、「やべえ! こんなヤツがおるんや!」となりまして、ヒップホップを聴くようになりました。更に日本語ラップにも辿り着いて、「こっちもヤバいぞ!」みたいな。

DJは、いつから始めたんですか?

大学からです。19歳くらいのときにターンテーブル2台とミキサーを揃え、レコードも買うようになりました。

なぜ、DJを始めようと?

みなさん、そうだと思うんですけど、好きな曲を広い場所でかけたい、大きい音で聴きたい、そんな初期衝動というか、欲求の延長からです。あとは、やっぱり「モテたい」みたいなのも(笑)。

「モテたい!=バンド!」ではなかったと。

楽器はできませんでしたし、目立つ方法の手段としては、DJは取っつきやすいかなって。機材さえ揃えてしまえば、自分が持っている音楽的な引き出しを開ければいいじゃん、そんな感じでした。

それが10年くらい前の話ですよね? 当時の福岡シーンは、どんな感じでしたか?

たくさんDJもいましたね。ザックリとDJのやり方なんかも教えてもらって。クラブ自体も明るくて、友達もたくさんいて、「この音楽ヤバくない?」「ヤバイ!」みたいな。それぞれが情報を発信しているところでした。ドラッグだの、性の乱れだの、そういうものとは、かけ離れていて、ネガティブな要素も皆無。本当にポジティブな空間だったんです。

shiggeさんが、初めてクラブにいったのは、いつ頃ですか?

中3ですね。餓鬼レンジャーのリリース・パーティでした。本当に衝撃を受けました。「俺はここにいたい! こういうことをしたい!」って強く思いました。

当初は、レコードでDJスタートしたんですよね? 

はい。僕がDJを始めたときは、CDJもパソコンのソフトも出始めた時期だったんですけど、先輩とか友達は、レコードでDJすることに拘っていたんですね。そっちのほうが大事だって。ですから僕も、それが当たり前だと思っていたんです。でも、後々「そんな拘りは要らん」となる訳ですけど(笑)。

はい(笑)。でもそうなる前は、レコード屋に足しげく通っていたと?

そうですね。天神にもレコ屋が4、5件まとまってありましたし、情報もレコ屋でゲットするような時代でしたから。クラブ以外でしたら、最もいろんな人と出会えるコミュニケーションの場だったんです。ゴリゴリの人もいれば、ヤワな感じの人もいる。あとは文化系の人とかも。懐かしいですね。今もあったら楽しいだろうなぁ(笑)。僕たちが、その最後の世代かもしれません。今から11、12年前くらいの話ですね。

shiggeさんは、当時どこでDJをやっていたんですか?

今はもう無いのですが、〈BASE〉っていうクラブでやっていました。アンダーグラウンドなヒップホップから、エクスペリメンタルなものまでかかるところで、ヒッピーみたいな人もいましたね。本当にあそこはカオスでした。一緒に活動することはありませんでしたが、YesterdayOnceMoreのメンバーもBASEで知ったんですよ。

しかし、その後shiggeさんは、レコードを手離し、パソコンでのDJにシフトされますが、どのようなきっかけがあったのでしょう?

それまでは、レコードからサンプリングをしたりして、つくっていたんですけど、いまいち自分の思い描くものと、機材が一致しない状況が続いていたんです。当時の僕は、大学を卒業してから、洋服屋で働いていたんですけど、そこが潰れまして、ハローワークに通っていました。そしたらそこで、職業訓練校のなかに音楽の勉強ができるところがあったんですね。それも偶然、僕が住んでいたマンションの2階に(笑)。そこで、ちょっと変わったフリーのPAさんと出会い、パソコンの凄さを知りました。すべてが変わりましたね。本当に新鮮で。23歳だったんですけど、明らかに人生の転機になりました。

パソコンでの作業は、なぜ衝撃的だったのですか?

レコードだったら、出来上がったフォーマットのなかから、なにかを抜き出してつくるじゃないですか。でもパソコンでの作業は、イチから全部つくる訳です。「こんなこともやれるんや!」みたいな。「あの音楽は、こういう風につくっていたんだ!」なんて、謎が解けた瞬間も楽しかったですね。

でも、これまでの活動を培ってきたレコードに未練はありませんでしたか?

ありませんでした。すぐにターンテーブルは奥にしまいました(笑)。「なぜ、俺はこんなに重たい物を持っているんだ? なぜ、こんなに場所を取る物を持っているんだ?」なんて(笑)。

切り替え力が素晴らしいですね(笑)。

レコードも1000枚くらいあるんですけど、「なんでこんなに買ったんだろう?」って(笑)。実際、レコードを買う時間、レコード代を考えたら、今は自由に時間とお金を使えるようになりましたから。

いきなりデジタル化しちゃったshiggeさんに、まわりの反応はいかがでしたか? 

 BASEで、ダブステップとかSKRILLEXとかをパソコンでやり始めたんですけど、みんな心配していましたね。「なにか速いヤツ食った?」なんて(笑)。徐々にデジタル化じゃなくて、一気に火がついたので、みんなビックリしていました。

そして2013年。shiggeさんは、YesterdayOnceMoreをスタートさせます。そのきっかけを教えてください。

自分たちの音楽をリリースする元が欲しかったので、僕とha;bii(現:HB)、Machete(現:NARISK)、そしてMactuveの4人で始めたんです。どういうものにしようかなんて、考えてはいなかったんですけど、決まっていたのは、フリーで音源を出すことだけ。「それぞれ4人の作品が出せたら終わりかな?」それぐらいのものだったんです。でも、その後cskや103iくんたちと、音楽を通して知り合いまして、特にcskとの出会いはデカかったですね。彼が考えていたことが、現在のYesterdayOnceMoreのカタチになっていますから。リリース戦略から、出演パーティのチョイスなど、自分たちがどう動くべきか、どう発信するべきかをすごく考え、ある意味、マネージメント的な役割も果たしてくれたんです。コレクティブというか、集合体として活動するようになったのは、cskのアイデアです。そこから、色々なアーティストを見つけてきては、フリーで出してもらうようになり、「ウチはこういう音楽が好き、こういうノリが好きなんだよ」そんな雰囲気をアピールするような流れになりました。

なぜ、フリーで音源リリースすることだけを決めていたんですか?

すでにネットではタダで落とせるようになっていましたし、そんな海外のアーティストもごまんといたわけです。それでも、「まだ日本はCD売りよるんか?」みたいな状況だったんですね。実際、ネットでのフリー・リリース自体も、別に最先端でもなかったし、僕たちも遅いくらいでした。でも抵抗は、まったくなかったです。だって、「タダのほうが人は聴くでしょ」って。安直な考えなんですけど、「タダで聴かんとか馬鹿でしょ」「タダで落とさないとか馬鹿でしょ」「いい音楽はタダだったら落とすでしょ」って。それは今でも変わらないです。

でも現在は、通常のリリースも始められていますよね? それはどうしてですか?

基本的には、現在もゼロからのスタートなんですけど、ただ、例えば「これはすごくいいけん、このくらいの値段なら売っても大丈夫じゃない?」って、そんな楽曲も出てきているんですね。そして、それは僕たちが成長してきた結果であるとも思うんです。それに、タダで出したり、フリーでダウンロードできること自体は、大きなブランディング、そしてプロモーションに繋がっています。ある程度の知名度は広がっていますから、僕の『burn out』を通常リリースしたのも、一定ラインのフェーズを越えたっていうか、周知してもらう時期は越えたから、次のステージに進もうという意味合いもあるんです。実際、もらえるのであればお金は欲しいです。自分たちがつくったモノに対して、正当な評価としてのバックが欲しいとは思っています。でも、根本は変わらない。ゼロからスタートしながらも、他のスタイルも考えてみようと。それがアーティストのモチベーションにもなるし、つくってくれた人のモチベーションにもなる。そして、僕のモチベーションにもなるんです。

インターネットを主戦場としているYesterdayOnceMoreですから、どこからでも発信可能ですよね? あえて福岡で活動している理由を教えてください。

皆、友達だからです。一緒にいて、面白いか、面白くないか、それだけですね。cskはおちゃらけているし、103iくんは横でニヤニヤしている。NHK Guyもスゲーおかしなことをぶっこんでくる。結局、そういうバイブスが合っているから、一緒にいたいだけなんですよ(笑)。

現在の福岡のシーンはどうですか? 東京でイベントをされることも多いようですが、違いを感じますか?

東京と福岡のシーンの違いについては、すごく大きなものがあります。福岡は、クラブ数が圧倒的に少ないし、やっぱりすごく田舎だと思うし。東京は、街自体がすごくデカいパーティのように感じます。一晩で何件もハシゴできちゃう。そういうのが本当に羨ましい。ひとつのパーティで完結するんじゃなくて、色々なところで、色々な人に会えるんですから。もし僕が東京に住んじゃったら、超遊ぶと思いますよ。それが嫌だから東京には行きません。嫌だからというか、そんな自分が怖い(笑)。

でも10年くらい前の福岡は、盛り上がっていたんですよね? 先ほどもポジティヴなシーンだったとおっしゃっていましたが。

そうですね。色々なジャンルがあったし、ジャンルごとにレジェンドがいたから成立していたんですけど、やっぱりクラブがなくなってしまったのが衰退の原因だと思います。

なぜ、福岡はクラブ自体が少なくなっているんですか?

やっぱり風営法がデカかったですね。BASEもそれが原因でダメになっちゃって。その兼ね合いでオールナイトができなくなり、そこで関係者のマインドが変わりましたね。対応できずに辞めちゃった人もいるし。全体的に、現在の福岡では、新しいカルチャーが生まれにくくなっていると思います。

そんな福岡という街で、YesterdayOnceMoreは、どんな存在なのですか? 〈孤軍奮闘している俺たちのアニキ!〉みたいな?

いえ、残念ながら、それはまったくありません。僕たちのことを知っている人たちは、大体が関係者です。この状況は、今でもモゾモゾしちゃいますよね。扱いが福岡では雑なんです。

どういうことですか? その原因は?

わからない。それは僕も知りたいです(笑)。ずっと、そこら辺にいる兄ちゃんみたいな感じに思われていますから。

では福岡では、どんな人たちがリスペクトされているんですか?

東京から来た人たちへの扱いはいいですね(笑)。福岡の人は、おもてなしの心が強いですし。でも「そんなん、東京で観たらいいやん」っていうラインナップのパーティが結構組まれるんですよ。僕たちは並ばせてもらえないような。

それは、YesterdayOnceMoreが福岡の人たちだからですか? それとも音楽の活動スタイルからでしょうか?

両方じゃないですかね。それに僕たち、福岡を代表しているつもりがないので、そのあたりも原因のひとつかもしれないですね。無国籍でありたいですし、レペゼン福岡みたいなのって、ちょっと恥ずかしいから公言しておりません。「福岡の人たちです!」なんていわれると、「いや、いや、いや」ってなります(笑)。

では地元福岡でも、YesterdayOnceMoreは、マイナーな存在だと?

そうですね、残念ながら。僕たちをよく知らない人たちは、とても多いです。「東京で人気があります」とか、「海外でも評価されています」とか、「台湾ツアーから帰って参りました」なんて、そんなのは集客に繋がらないし、なんのアピールにもなっておりません。悲しいですね、地元では愛されてないのです(笑)。ウチのパーティに来てくれる人たちは大好き。あの人たちと墓までずっと一緒にいたい。

知ってもらいたいというお気持ちはありますか? 地元ファンを増やしていきたいとは?

はい、もちろん。それができたら、僕たちのフェーズは変わると思っています。でも、地元ファンを増やしていきたいから、特別なことをする訳ではなくて、自分たちがやっている活動、音楽が広まってくれさえすれば、勝手に増えると考えています。そこも結局バイブスですね。「いいね!」っていってくれる人のバイブスが合えば、「ありがとう!」っていえますから。

先ほど、福岡は新しいカルチャーが生まれにくくなっているとおっしゃっていましたが、それはどうしてだと考えていますか?

福岡だけではないと思うのですが、その街の皆が主人公で、その人たちがカルチャーをつくっているという感覚が、とにかく薄くなっていると思います。そういうのがないから、自分たちのことしか見えない。結局、内にこもっちゃう。自分たちのことをもっとオープンにして、たくさんの人々と接することができる環境があれば、勝手に大きなカルチャーができるんじゃないかと、僕は考えています。ただ、僕たちは音楽でカルチャーをつくっていこうみたいな、そんなに大きなことはいってないんですけど、自分たちがニコニコできる環境づくりは努めています。そういう部分でいうと、僕たちにはクラブがあります。僕たちが初めてインターネットから抜け出して、なにかを表現できたのは、やっぱりクラブという場所なんですね。クラブが発信しているという部分をもっとオープンにして、深い繋がりを築けるような環境さえできれば、もっと大きなものができるんじゃないかないかと。そこは意識していないと、一生変わりませんから。

shiggeさんは、YesterdayOnceMoreの未来をどう考えてらっしゃいますか?

僕自身は、レーベル・オーナーだから、どうしよう、こうしよう、みたいな考えはあまり持っていなくて、自分自身に向き合い、やりたい音楽とか、表現の幅とか、そういうのが広がっていけば、結局それがYesterdayOnceMoreに還ってくると考えています。もちろん、103iくんとか、cskとか、YesterdayOnceMoreに関わってくれている人たちが、もっとニコニコできて、お小遣い程度でもお金が回るくらいになればいいですね。YesterdayOnceMoreが徐々にいい感じに動き始めた頃、NHK Guyが、「shiggeが声をかけていなかったら音楽を辞めていた」っていってくれたんです。「shiggeのお陰で音楽を続けられたし、東京にも行けたし、大阪にも行けたし、沖縄にも行けた! shigge! チェンジマイライフだよ!」って(笑)。そういうのが僕のなかでは大きいんです。ちょっとずつでいいけん、その人たちがいい流れになってくれれば。ですから、YesterdayOnceMoreを引っ張るというより、「自分がちゃんとしないと!」って感じですね。

§

YesterdayOnceMore関連イベント
SUMMER WAR GAME continue
2018.08.12(日)
OPEN 12:30 START 13:00
 CLOSE 22:30
渋谷LOUNGE NEO
ADV¥3000+1D/DOOR¥3500+1D
詳細はコチラ。

UFOオカルト伝説の謎 04.アレン・ハイネックの未知との遭遇

アレン・ハイネック

米軍UFO調査資料から生まれた映画

映画『未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind)』(77年製作、78年日本公開)は、UFO好きなら誰でも「よく出来た映画だ」というだろう。実際のところ、その映画で描かれているのは、UFOの目撃、遭遇、アブダクション(宇宙人による誘拐)、さらには米国政府のUFOの隠蔽、そして、最後には街の電気工として働く大人になれきれない主人公の男性が、選ばれた人間として宇宙人に招かれて、UFOに搭乗して宇宙に旅立つのである。いまからみれば、これはUFOにハマった人々の頭のなか、そのものだろう。

しかし、その映画が日本で公開されたとき、UFOに乗った宇宙人との接触を意味する〈第三種接近遭遇〉という言葉が、強烈なリアリティを持って迫ってきたように、当時、UFOや宇宙人の存在についての議論は真摯なものであった。そして、この『未知との遭遇』が、大きな影響力を持った決定的な理由として、長年に渡って米軍UFO調査機関に関わっていたUFO研究家、アレン・ハイネック(Dr. J. Allen Hynek)がこの映画のアドバイザーを務めたことがあげられる。

ハイネックは天文学者として、1947年、米国空軍によるUFO調査機関の顧問となり、52年から始まる〈プロジェクト・ブルーブック(Project Blue Book)〉では、UFOを強く肯定するわけではないが、「UFOは宇宙人の乗り物かもしれない」という穏健な立場を守った。

前回までの記事でも触れてきたように、米国では、50年代にUFO目撃の報告例が急増し、政府はUFOに関する科学的な究明よりもUFO問題が引き起こす、社会的な不安を危惧するようになっていた。とはいえ、ハイネックを含め、専門家であれば、実際にUFO調査に携わると科学的に説明できない事例をいくつも取り扱うことになる。事務的に証拠不十分な事例は切り捨てるのか、あるいは、科学的な好奇心から詳細な記録を残し、その判断を将来に委ねるのか。ハイネックは、後者の立場こそ科学者として正しい方法であるとして、プロジェクト・ブルーブックの1万2000件の調査資料作成に尽力した。

だが、1950年出版の『空飛ぶ円盤は実在する(The Flying souces are real)』でドナルド・キーホー(Donald Keyhoe)が指摘していたように、米空軍のUFO調査機関の関係者には、UFO肯定派、否定派、さらに懐疑派の3派に分かれており、調査機関の名前が47年発足時の〈プロジェクト・サイン(Project Sign )〉から〈グラッジ(Grudge)〉、そしてブルーブックへと変遷していったのは、否定派の発言力が強くなってきたからに他ならなかった。キーホーは、米国政府は「UFOは宇宙人の乗り物である」という事実を知っていながら隠そうとしている、と主張したが、ハイネックは、UFO調査機関の顧問として、キーホーほどの極論には加担しなかった。それでもハイネックは、頭ごなしにUFOを否定する否定派の態度が気に入らなかった。

ハイネックの努力にもかかわらず、政府はUFO否定派に軍配をあげる。第3機関としてコロラド大学の物理学者エドワード・コンドン(Edward Condon)の研究委員会に、ブルーブックの調査資料の最終判断を委託することで、UFO調査についての幕切れを図った。つまり、ハイネックが顧問を勤めていたUFO調査機関、ブルーブックは閉鎖となったのだ。

69年、〈コンドン報告(未確認飛行物体の科学的研究)〉が発表されると、ハイネックは、その報告書を「お粗末なもの」と一蹴し、独自のUFO研究を続けた。そして、1973年、ハイネックは民間機関CUFOS(UFO研究センター)を設立し、その後の人生をUFO研究に捧げている。

政府の御用学者が作成したコンドン報告で、辛酸を舐めさせられたアレン・ハイネックが、その人生を捧げて調査収集してきた米軍UFO資料を映像化することで、米国市民にUFO議論について問いかけたのが、映画『未知との遭遇』だった。だからこそ、この映画には、UFO目撃&遭遇事件に関する、あらゆる要素が非常に具体的に描き込まれているのである。

映画『未知との遭遇((Close Encounters of the Third Kind)』

ハイネックも信じたヒル夫妻のアブダクション

アレン・ハイネックは、1972年に出版した『第三種接近遭遇』(邦訳78年、大陸書房のちに角川文庫)で、UFO調査を分類整理して、数々の実例を丁寧に解説している。この本は、コンドン報告に不満を持ったハイネックが、あらためて、ブルーブックの資料から、自身の見解に沿って、UFO問題に挑んだものである。

ハイネックは主にUFO目撃事件に焦点を絞って、〈夜間発光体〉〈日中円盤体〉〈レーダー・目視同時報告〉〈第一種接近遭遇(近距離での目撃)〉〈第二種接近遭遇(測定可能な物理的影響)〉の5つに分類している。そこにさらに〈第三種接近遭遇(搭乗者との接触)〉を加え、「過去20年以上に渡る研究のなかで、私はこのカテゴリーに属する事件に、直接的には、ほとんど関わってこなかった」としながらも、ヒル夫妻事件に触れ、「ただ、ヒューマノイド事件が、この問題のすべての鍵であった、と将来的に認定されるかもしれない可能性も、決して忘れてはなるまい」とまとめている。

そして、ハイネックも認めたヒル夫妻のアブダクションこそ、映画『未知との遭遇』公開後に復活する〈ロズウェル事件(Roswell Inciden)〉と相まって、のちの米国のUFO神話の骨格をなしていくものである。

まず、具体的に〈ベティとバーニー・ヒル夫妻誘拐事件〉をみてみよう。

1961年9月19日の深夜、2人はカナダでの休暇を終え、車で自宅に戻る途中にUFOを目撃したが、途中で記憶が途切れてしまったという。その後、悪夢にうなされる日々が続いたため、妻のバディはドナルド・キーホーに手紙を書き、翌月にはキーホーが主宰する民間UFO調査機関〈NICAP(全米空中現象調査委員会)〉のメンバーによる調査を受けた。そのとき、ヒル夫妻には、約2時間の空白の時間があると判明した。

事件から2年後、1963年の暮れから6ヵ月間に渡り、2人は、記憶喪失症の権威、ベンジャミン・サイモン博士(Dr. Benjamin Simon)の催眠治療を受けた。セッションは別々の部屋で行われたが、その内容は細部まで一致していた。逆行催眠でベティは、宇宙人に誘拐され、宇宙船のなかで、へそから針を挿入されるなどの身体検査をされた上に、記憶を消されて戻された、と語った。サイモン博士は、彼らの話が、すべて真実であるとは受け止めなかったが、誘拐されたときの状況について、あまりにも詳細に語られたことについては驚きを隠せなかった。

1966年、ヒル夫妻事件は、ジョン・フラー(John G. Fuller)によって『宇宙誘拐 消された時間(The Interrupted Journey: Two Lost Hours Aboard a Flying Saucer)』(邦訳82年、角川文庫)としてまとめられ、ベストセラーとなり、世界的に認知された。

この事件は、それまでのUFO目撃事件とは、まったく異なる、宇宙人によるアブダクションという、第三種接近遭遇の貴重な実例であった。また、ヒル夫妻を誘拐したとする宇宙人の外見は、小柄でのっぺりとしたグレイ・タイプといわれるヒューマノイドに似ており、70年代後半から急増する宇宙人によるアブダクションの原型となり得るものであった。ちなみにヒル夫妻は、当時としては珍しい白人女性と黒人男性の夫婦であったことも記しておこう。

50年代初頭から、ジョージ・アダムスキー(George Adamski)らのコンタクティが、宇宙人とテレパシーで交信したり、UFOの写真撮影や宇宙人との接触に成功したと主張していた。だが、真摯なUFO研究家たちは、コンタクティたちが語る宇宙哲学やUFO教のたぐいとは距離を取ってきた。ブルーブックの初代長官ルッペルト大尉(Edward J. Ruppelt)が述べていた通り、コンタクティたちは、ある種のUFO教を唱えるカルトであった。

だが、ヒル夫妻のアブダクションには、それらとはまったく異なる純朴さがあった。そして、アレン・ハイネックは、それを第三種接近遭遇の実例として認めている。

そして、ハイネックがアドバイザーを務めたことで生まれた映画『未知との遭遇』のいい知れぬリアリティこそが、グレイ・タイプの宇宙人によるアブダクションの報告の急増や、ロズウェル事件に関する陰謀論的なストーリーを生み出す要因にもなっただろう。

実際、同作品では、米国政府が秘密裏に宇宙人との接触を試みるなか、その秘密を暴いた主人公の家庭生活はめちゃくちゃになる。しかし、最後に主人公は、見事に宇宙人との対面を果たし、宇宙に招かれるのだ。

それこそが、当時のアメリカのUFOマニアたちが、夢にみたハッピーエンドではなかったか。ここから、忘れられていたはずのロズウェル事件が息を吹き返し、UFO議論の大きな争点として復活を始めるのである。

『第三種接近遭遇』(角川文庫)

『宇宙誘拐 消された時間(The Interrupted Journey: Two Lost Hours Aboard a Flying Saucer)』(邦訳82年、角川文庫)

グレイ・タイプといわれるヒューマノイドに似ている宇宙人。image by Camilo Sanchez

米国空軍がおこなったUFO調査をもとにしたドラマ、『Project Blue Book』のトレーラー。10話ではアレン・ハイネックが主役

UFOオカルト伝説の謎 01.ケネス・アーノルドのUFO目撃事件はこちら

UFOオカルト伝説の謎 02.ジョージ・アダムスキーの空飛ぶ円盤同乗記(前編)はこちら

UFOオカルト伝説の謎 02.ジョージ・アダムスキーの空飛ぶ円盤同乗記(後編)はこちら

UFOオカルト伝説の謎 03.エーリッヒ・フォン・デ二ケンの未来の記憶はこちら

国籍を伝えるタイミングを待つ〈在日コリアン〉の父親

日本人の両親に育てられ、日本で暮らしてきたというだけで、私は自分の戸籍すら確認せずに、自分自身を日本人だと思っている。これまで私は、自分や他人の国籍について、意識したり、疑問を抱きもせずに、日本で生活を送ってきた。仮に自分の戸籍を調べて、日本籍でなかったとしても、特に大きな問題として捉えないような気がしている。一体、国籍とは何なのだろう。

日本人といっても、海外で生まれ育った日本人、海外に移住した日本人、他国に帰化する日本人…など様々。帰化して日本籍を取得した父親と、日本人の母親のあいだに生まれた子供は戸籍上、日本人だ。

また、在日外国人も、帰化をすれば日本籍を取得できる。しかし、そうしたところでその人は、日本人扱いされるだろうか。それほど、国籍というのはよくわからない。

今回、日本人の妻と子供と日本で暮らしている〈在日コリアン〉の男性に話を伺った。彼が生活のなかで経験した苦労や、国籍を告げていない子供への想いをうち明けてもらった。彼は幼い頃から〈在日〉を意識しながら生きてきた。生来の国籍は偶然決まるのに、人それぞれ、国籍についての意識にギャップが生まれるのは何故だろう。

§

ご自身が在日コリアンだと知ったのは、いつですか?

小さい頃から、何となくわかってました。僕はお父さん、お母さんを〈アボジ、オムニ〉、おじいさん、おばあさんを〈ハルベ、ハンメ〉と呼んでたり、食卓に並ぶ料理も、キムチとかで全体的に赤かったし、おじいさんの家では朝鮮新聞を読んでましたから。僕が悪さをすると、親父から「お前、朝鮮学校に入れるぞ」と怒られたりもしましたね。だから、小学校に入学する前から「僕はみんなとは違うんだな」と思ってました。

小学生時代、自分が在日コリアンだと周囲に公表していましたか?

僕は親父や親戚から「在日コリアンは馬鹿にされるから、隠した方がいい」とすり込まれていたので、隠してましたね。おじいさんの家の近くに、朝鮮部落があって、自分以外にもひとり、在日コリアンの生徒がいました。そいつは脇が甘くて、作文に「僕のハンメが…」と書いて、学校の先生から、「ハンメって何ですか?」とツッコまれていたのは覚えています(笑)。

いつまで、在日コリアンであることを隠していたんですか?

中学校の教師にバラされました。ひどいですよね。43歳のおっさんになっても、恨んでいます。僕が中2のとき、体育教師が「あいつは在日コリアンで育ちが悪いから、あんまり仲良くさせないほうがいい」って同級生のお母さんにバラしたんです。次の日、部活が始まる前に少年ジャンプを読んでいたら、同級生から「聞いたよ。お前、在日コリアンなんだってな」と。ガーンですよね。「在日コリアンだけど、何か?」と返す勇気もありませんでした。その同級生からは、「俺は、お前が在日コリアンだろうと関係なく、友達だからね」といわれたのですが、妙に腹が立ちましたね。

なぜですか? いい友達じゃないですか。

簡単に在日コリアンだとバラす親の子どもと仲良くなれるわけねえよって(笑)。今では一緒にバーベキューをする仲ですが、顔を見るたびに、バレたときを思い出します。在日コリアンだとバレるのが嫌で嫌で仕方ありませんでしたから。

なぜ、在日コリアンだとバレるのがそんなに嫌だったんですか?

親父とか親戚から、バレたらいじめられるとか、色々聞かされてましたから。本当にバレたらどうなるのかわからない怖さはありましたね。

在日コリアンが理由で馬鹿にされたり、実際にいじめに遭いましたか?

それが理由でいじめられてはいません。でも、好きな女の子に、「在日コリアンだから、嫌われたらどうしよう?」とか、「在日コリアンだとバレてなければ、この恋は実ってたかもしれない」みたいなネガな発想はありましたね。

失敗をしてしまったら、「在日コリアンだから」だと考えていたんですか?

自分がしてしまった失敗を、在日コリアンのせいにはしません。でも〈対、人〉の場合は、在日コリアンが頭にありました。誰かと接するときにどう見られているのかは気にしてましたね。好きな子ができても、「僕はこの子とは結婚できないんだな」とか。

他に覚えているお父さんの言葉はありますか?

大学受験のときに、「在日コリアンだから、学習院は無理だぞ」「在日コリアンだから、一流企業には就職できない」とか。それは親父の経験と妬みもあります。在日コリアンは就職に影響するって聞かされて育ちましたから。

お父さんから、「在日コリアンだから…」といわれ続けて日本が嫌になりませんでしたか?

日本は生まれ育ったところだし、在日コリアンを気にしない人もいるので、今は居心地が良いかもしれないです。もう、国籍を隠していませんし、聞かれれば答えます。

何がきっかけで、在日コリアンを隠さなくなったんですか?

ニューヨークに留学して、日本人と韓国人の違いをちっぽけに感じました。歴史は浅いけど、いろんな人種の人がいるので、僕は米国が好きなんです。僕にとって〈在日コリアン〉はアイデンティティです。単純に個性のひとつだと思っています。

アイデンティティ、個性のひとつとして、お子様に伝えないのでしょうか?

アイデンティティも、プラスに働く場合とマイナスに働く場合があるじゃないですか。日本というコミュニティにいるから、そこはやっぱり意識しますね。在日コリアンは、韓国でも〈ギョッポ〉と馬鹿にされてしまいますから。

ご自身を韓国人だと思っていますか? 日本人だと思っていますか?

日本人でも、韓国人でもありません。〈在日コリアン〉です。そう考えると、いっそ本物の韓国人のほうが良かったかもしれません。

本物の韓国人?

在日コリアンではなく、韓国から来た韓国人です。在日コリアンよりもわかりやすいじゃないですか。だって、僕は「韓国人なの? 日本人なの?」って思われてますから。だから、帰属意識も薄いんですよね。

お子様は日本人ですか? 韓国人ですか?

僕の子供は二重国籍です。国籍選択をしなくても法務大臣から催告が来ないのは国籍法の抜け目ですよね。だから、国籍は子供自身がいつか判断すればいいかなって。でも、「パパは在日コリアンだけどね」って見えない圧はかけるかもしれないですが(笑)。

圧をかけるのは、韓国籍になってほしいからですか?

正直、わかりません。圧はかけるけど、自分で決めればいいですかね。教育上良くないかもしれないけど、よく子供に「パパとママどっちが好き?」って質問はしています。子供なりに答えに迷うんですよ。

〈パパとママどっちが好き?=韓国と日本どちらを選ぶ?〉ですか?

それは関係ないですが、パパとママっていうのは究極の二択ですよね。どちらかを決めるのは、罪の意識があるのかもしれません。僕もサッカーの日韓戦を観て、どちらを応援するか訊かれたら、「うーん…米国」と答えますし(笑)。だって、接点の多さでしか判断できないじゃないですか。「この場合はこっちかな?」って。だから、帰化するかどうか、日韓どちらを応援するかについては「どっちも選べない」が答えでしょうか。

ニューヨークに留学して、日本人と韓国人の違いなんて大した問題ではないと気付かれたそうですが、お子様にも、同じ経験をしてほしいですか?

そういう経験をしなくても、大した問題じゃないとわかってほしいです。僕がどれくらいサポートしてあげられるかが、父親としての課題ですかね。僕は親父から「お前は在日コリアンだから…」といわれ続けたけど、僕の子供には「いやいや、在日コリアンなんて関係ないから」と説明したいです。

なぜ、今、お子様に国籍を伝えないのでしょうか?

あらゆる問題、リアクションを想定して、冷静に子供の質問に答えたいです。僕の場合は中2のときに教師にバラされたので、しっかり答えを用意したいです。でも、精神年齢や理解力もあるから、自分が上手く伝えられる自信がありません。

お子様が何歳になれば、上手く伝わるのでしょうか?

わかりません。僕が自分を在日コリアンだと公言できるようになったのは、19歳とか、20歳になってからです。長女は小学6年生なのですが、思春期は難しいですよ。自分を日本人だと信じ切った後に、違うと知るのはショックでしょう、遅かったかもしれないですよね。自分が子供だった頃とは、時代も違うから、未知の世界です。僕にすれば、本当に読めないんです。おっさんになるほど、自分の読めない世界っていうのは怖いですね。

お子様を想って、自身の国籍を隠しているんですか?

厳密には、隠しているわけではありません。隠すというのは、質問されて、嘘をつくことですから。「パパは韓国人なの?」と、子供に訊かれたら正直に答えるつもりです。ただ、長女に免許証を見られ、「パパの名前が違う」といわれたときは、とっさに「この免許証、間違ってるんだよね」といってしまいましたけど(笑)。

でも、僕の母親が韓国料理屋をやってたり、必ず食卓にはキムチが出てきてたから、子供は何か引っかかってるかもしれないですね。僕は重要な問題として考えてるけど、妻からは「そんなの大した問題じゃないよ。私とパパだって結婚してたし、そのふたりの子供でしょう?」といわれて。でも…正直、父親としてはいいたくない気持ちがあるのかもしれないです。今の時代はわからないけど、僕は嫌でしたから。やっぱり自分の子供に嫌な思いはさせたくないです。

Who Are You?: 宮澤さん(30歳) 会社員

近所の中華にて。テレビから桑田佳祐の声が聞こえてきたと思ったら、TKOの木下でした。そこで隣のご夫婦。「この人、結構上手いんだね」「サザンの新曲、聞いた?」「うん。アレいいねぇ」「そういえば、30年くらい前の夏もさぁ…」なんて、相当サザンの話で盛り上がっていたのですが、ここで「はい、もやしあんかけそば、うま煮そば、お待ち」が。早速おふたりともズルズル。もうちょっとサザンの淡い思い出、聞きたかったな。〈匂艶 THE NIGHT CLUB〉って、いいですよね!

日々の生活の中で、私たちはたくさんの人たちとすれ違います。でもそんなすれ違った人たちの人生や生活を知る術なんて到底ありません。でも私も、あなたも、すれ違った人たちも、毎日を毎日過ごしています。これまでの毎日、そしてこれからの毎日。なにがあったのかな。なにが起るのかな。なにをしようとしているのかな。…気になりません?そんなすれ違った人たちにお話を聞いて参ります。

宮澤(みやざわ)さん 30歳:会社員

宮澤さん、お誕生日おめでとうございます! 昨日だったんですよね?

そうなんです。ありがとうございます。

おいくつになられたんですか?

やっと30歳になれました。

あら、30歳になりたかったんですか?

いえ、なりたくはありませんでした(笑)。でも、27歳になったとき、「次は28歳だなぁ…」、28歳のときは、「次は29歳…」、そして29歳で、「いよいよ30に乗るのか…」なんて考えていたので、30歳になって、やっとゼロに戻れた気分です。次の山は35歳ですね(笑)。

宮本さん、30歳は大好物ですよね?

(カメラマン:宮本さん)はい。

ありがとうございます(笑)。

じゃあ、昨日はパーティーでしたか?

いえ、普通に会社へ(笑)。

宮澤さんは、どんなお仕事をされているんですか?

大学生向けウェブメディアの編集をしています。

お、同業じゃないですか! でもウチよりピチピチしてそうですね。

就職情報サイトが主たるサービスの会社なんですけど、私が扱うメディアは就活とは別軸です。大学生って、就活のタイミングで、会社見学をしたり、自己分析を始めるんです。でも、自分がやりたいこととか、好きなことって、就活前の自身の体験から判断するものだと思うんですね。なので、学生生活の体験を通じて、自分が好きなものや、心踊るものを、発見してみよう、というメディアなんです。

具体的に宮澤さんは、どんなお仕事をされているんですか?

基本的にはディレクションです。連載記事の企画と、取材のキャスティング、進行などを担当しております。あとはイベントの企画もやります。

どんなイベントを企画されているんですか? ひとつだけ教えてください!

そうですね。例えば…焼肉とか。

焼肉?

大学生を募って、様々な職種のかたがたと焼肉を食べる企画です。

超イイじゃないですか! 安安? 肉のハナマサ? 食い放題?

違います(笑)。普通の焼肉屋です。社会で活躍されている大人と一緒に焼肉を食べながら、いろいろ聞いちゃいなよっ、ていうイベントですね。学生さんには、そんな機会があまりないので、こういった場も設けております。結構本当にすごい大人が来るんですよ。

でもみなさん、ちゃんと大人の話を聞いてますか? 私だったら「こんなクソ親父の話なんて!」とか思っちゃいそうですが。

いえ、そんなことありません。みなさん、ちゃんと聞いていますよ。最近の学生さんたちは素直なんです。私とも違いまして(笑)。

はい(笑)。

「社会で活躍されている人たちはスゴイ」って、素直に感じているようですよ。

じゃあ、素直じゃなかった宮澤さんの30年を振り返っていただきましょう。

はい(笑)。よろしくお願いします。

ご出身はどちらですか?

愛知県の一宮市です。

お! ココイチの本社があるところじゃないですか!

そうです。よくご存知で(笑)。

高速道路から本社が見えますよね! やっぱりココイチは一宮市民の誇りなんですか?

そんなことはありません(笑)。ココイチの本社が一宮だということはあまり知られてないんですよ。

あら、一宮市民ったら。

あのう、ここですいません。〈一宮〉のイントネーションが違います。〈すしざんまい〉と同じイントネーションです。

すいません、〈すしざんまい〉がよくわかりません。

語尾が上がる〈宇都宮〉、〈西宮〉とはイントネーションが違うんです。

ああ、それは本当にすいませんでした。以後気をつけます。ただ、申し訳ありませんが、一宮って、本当にココイチしか知らないんです。どれくらい栄えている街なのですか? 名古屋が100だとしたら?

30くらいかな。本当は10かもしれないですけど、20は郷土愛を乗せておきました(笑)。

お優しい(笑)。

名鉄一宮駅と尾張一宮駅っていうのがあって、その周辺は栄えていますね。名鉄百貨店とか大きな商店街もありますし、人口も多いんです。一宮は名古屋のベッドタウンなんです。

あれ? 今、〈一宮〉の語尾、上がりましたよ。

ああ、ごめんなさい。以後、気をつけます(笑)。

小学校のときは何をしていましたか?

う〜ん…そうですね…。全然、覚えていない…よく寝ていましたね。

えー、初めてココイチに行ったときのこととか、教えてくださいよ。

むしろ、社会人になるまでココイチには行ったことなかったです(笑)。そうだな…恋バナばっかりしていたかなぁ。

友達同士で、好きな子をいい合ったりするヤツですか?

そうです(笑)。「絶対にバラすなよー」なんて。でも、私は口が軽いからバラしちゃったりして、「ぜっこー!!」とかですね。あとは、児童会の役員をやったりとか…。ごめんなさい、小学校時代は本当に覚えていないです。

わかりました。オッケーです。じゃあ、中学に参りましょう。

はい。この頃から、ある感情が芽生えてきました。

おおー、なんですか? 性意識?

いえ、早くこの狭い空間から抜け出したいと。

んん? それって一宮のことですか?

はい、そうですね。それに中学とか高校って、学校がすべてじゃないですか。狭い世界にいる自分が嫌でしたね。

あれ、さっき20増しの郷土愛を見せてくれたじゃないですか?

いや、正直いいますと、あんまり一宮は好きじゃなかったです(笑)。

なにか嫌な思い出があったんですか?

中1のとき、怖い先輩に目をつけられちゃって、シメられるっていう(笑)。

すいません、面白そう!

自転車登校だったので、ヘルメットを被らないといけなかったんです。でも、ヘルメットなんて、被らないじゃないですか。

危ないなぁ。

それで自転車登校していたら、怖い先輩が、「おい! ヘルメットを被らなきゃ、ダメだろ!」っていってきたんです。

怖い先輩は、ヘルメットを被っていたんですか?

いえ、被ってないです(笑)。でもそれから、目をつけられちゃって。

ヘルメット事件以外にもなにかあったんですか?

私には3歳上のお姉ちゃんがいるんですけど、中学の制服は、お姉ちゃんのお下がりを着ていたんです。でも、お姉ちゃんは私よりも身長が低かったんです。153センチくらい。

宮澤さんは?

168センチです。ですから、みんなと同じようにスカートを1、2回折ると、更に短くなっちゃうんですよ。それも突っ込まれましたね。先輩が近くにいるときは、お腹を凹ませて、制服をシュッと落としていました。

すげえテクですね!

そしたらある日、下校時間に先輩に呼び出されたんです。先輩と男子の5、6人に囲まれて、「なんとかいえよ!」って背後の壁を蹴飛ばされたり(笑)。

宮澤さんも、やんちゃだったから?

いえ、全然そんなことはなかったんですけどね(笑)。

部活とかには入っていなかったんですか?

柔道部に所属していました。

お! 先輩をブチのめすために!

いいえ(笑)。小学生のときも、少林寺拳法を習っていましたし、武道が好きだったんです。

お! 小学校時代の記憶、出てきたじゃないですか!

あ、はい(笑)。それで、柔道部を見学したら、顧問の男の先生がめちゃくちゃ格好良くて。あと、3年生の男子部員も格好良くて。

いいですねぇ。ちなみに宮澤さんは強かったんですか?

一宮市内の中学校って、女子柔道部が少なかったんです。ですから、大会に出ただけで、準優勝しました。試合には負けたんですけど(笑)。結局、それほど続かずに帰宅部みたいになりました。

格好いい先輩とは?

なにもなかったですね。先輩たちはガチだったので、私たちが「キャー!」って騒いでいるのを、鬱陶しいと思っていたんじゃないでしょうか。

他に好きな人はいなかったのですか?

中3で好きな人ができました。とにかく振る舞いが格好いいんです。ビーバーみたいな顔で。

ジャスティンのビーバー?

動物のビーバーです。

どんな振る舞いが格好よかったんですか?

誰かが物を投げたら、ビーバーはしっかりキャッチするんです(笑)。それも、とびきりクールに(笑)。

動物園のショーみたいですね。そのビーバーとはつきあったんですか?

いいえ。でも、毎日、メールをする仲でした。「宮澤って学校だと俺に冷たいよな」とかいわれて、「それは、めっちゃ好きやから…」なんて心で訴えていました。目を合わせたら話せない。それくらい格好よかったんです。

格好よさがよくわからないので、ビーバーを人で教えてください。

舘ひろしですね。

それは格好いい!!

もう本当にメロメロでした(笑)。中3の修学旅行は東京だったんですけど、新幹線のなかで王様ゲームをやったんです。私が王様になったんですけど、「○番は東京に着いたら、私になにか買うこと!」っていったんです。そしたら○番がビーバーだったんですね。

おおー、舘ひろしになにを買ってもらったんですか?

浅草寺に行ったんですけど、ビーバーから「なにか買うんだろ、いくぞ」なんていわれて(笑)。グループ行動だったのに輪から外れて、ふたりきりになって。でも、あまり金銭的負担をかけたくなかったので、仲見世でお団子を買ってもらいました(笑)。

舘ひろしに団子を買ってもらえるなんて、ねぇ。

忘れられない思い出ですね。

その後、舘ひろしとは?

成人式のときに酔っ払って、ビーバーに電話をかけて「中3のとき好きだったよ」っていったら、「気持ち悪いわ」って(笑)。

舘ひろしに、「気持ち悪いわ」っていわれるのも最高ですね!

あと、車を整備に出したら、たまたま私の担当の整備士として、ビーバーが登場したんです。車のなかは散らかっているし、大好きな『タイタニック』のサントラは爆音で流れているし、ちょっと恥ずかしかったですね。

宮澤さん、タイタニックが好きなんですか?

私が小学生のときにタイタニックが上映されたんですけど、何度も観にいきましたね。好き過ぎて、小5くらいのとき、家族でタイタニックの仮装をして、シティマラソンに出たくらいです(笑)。お父さんとダンボールでタイタニック号をつくって、私は主人公のローズ役をやって、お父さんが煙突役でタイタニック号を担いで走ってくれました(笑)。

小学高時代の思い出、どんどん出てくるじゃないですか。

ですね、すいません(笑)。そのときに撮った写真を年賀状にしました。ダンボールのタイタニック号の1部も実家にまだ残っています(笑)。

次ページはコチラ。