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ニュー・ウェイヴのススメ ② ゴシック/ポジティヴパンク

若かりし頃、ゴスっ子と付き合っていました。いつも真っ黒の装いでしてね、眉毛も細くてね。結構長いあいだお付き合いさせていただいたのですが、すっぴんはほとんど見る機会がなかったなぁ。貸切温泉でもばっちりキメていましたからねぇ。まぁ、可愛かったですけどね! そんなある日、「ゴスナイトに行こう!」と彼女に誘われました。確か王子の3Dだった気がする。結局、そのゴスナイトは、なんかトラブルがあって中止になったのですが、それはそれで本当に良かった。なぜならその彼女、いつもよりマシマシで顔を白くしていたから。目の周りもマシマシのパンダになっていたから。MAYHEMもびっくりのコープス・ペイント…いや、もはやABBATHレベルかな、鉄拳かな。鉄拳なんかと一緒に歩きたくない。鉄拳の彼氏だなんて勘違いされたくない。本当にそのイベントが中止になってホッとしました。まぁ、ド可愛かったですけどね!

なんて私も、学生の頃は白かったです。軽くドーラン塗って、前髪垂らして、卑弥呼みたいな細黒い靴を履き、身体弱そうにシューゲイズしていれば合格。小脇に澁澤龍彦を抱えて、旧・新宿ロフトに行ったならば、トランスギャルのひとりやふたりとお近づきになれるだろう、まぁーなれなかったらナゴムギャルでもいいや、でもジャパコアの彼女みたいなのはいやだなぁ…なんて、もちろんトランスともナゴムともロマンスはありませんでしたが、UKエジソンを起点とする西新宿には、『TO-Y』に憧れながらも、結局は精子臭い黒服男子がシューゲイズしながらウロウロしていたのでした。

すいません、懐かしくなってきたので、もうちょっと続けます。新宿ロフトで忘れられない経験をしました。「ライブとか、コンサートとか行ったことないから連れてって」と大学のH君にお願いされて、トランスフォーマー(ex. マスターベーション)とザ・ゲロゲリゲゲゲ(センズリチャンピオン!)のライブをロフトで観ました。そもそもチョイスを間違っていたんですけど、更にジャパコアのバンド(誰だか忘れました)が乱入しまして、フロアやらステージやらでバットを振り回し、暴れはじめたのです。〈狩り〉ですね。トランス・ギャルの「キャ〜!!」が響き、私もH君も逃げ回っていたのですが、ふとステージに目を向けると、ザ・ゲロゲリゲゲゲの〈ゲロ30歳〉が全裸で三輪車を「キーコ、キーコ」しているではありませんか! 「こういうときは、どうしたらいいの!!」とH君は大声で訊いてくるんですけど、私もこんなの『TO-Y』でしか知りませんでしたからね、ふたりともチビっちゃって、そのまま駅に向かいました。新宿駅でH君は、「ハウンド・ドッグみたいなのを期待していたよ」と私に背中を向けました。素敵な想い出です。

長々とすいませんでした。というわけで、「ニュー・ウェイヴのススメ:第2回」は、白塗り、黒服、虚弱体質のゴスです。ゴシック/ポジティヴパンクです。

まず、ゴスですが、ゴシック(Gothic)のゴスです。〈世界大百科事典〉によると、

元来〈ゴート人の〉を意味する語。ゲルマン人の未洗練な流儀に対する蔑称の語調をもつ。当初、特定の教会建築様式を指すものであったが、のちに美術様式全般に拡張して用いられた。さらに、たんに美術ばかりか、文学、音楽、思想など多様な文化領域においても〈ゴシック的〉なる概念の使用が提唱され、精神史的文脈における定義と解明とが求められるようになった。精神史上の〈ゴシック〉時代は、ほぼ12世紀後半から15世紀にかけての約3世紀をおおっている。

更に〈デジタル大辞泉〉を見ると、

文学作品や映画、ファッションなどで、幻想的・怪奇的・頽廃的な雰囲気をもつもの。

フムフム、確かに竹下通りに現れた中条あやみさんのファッションもそんなのでしたね。でら可愛かった私の元カノがそうだったように、そのファッション同様、ゴスの音楽は真っ黒です。暗いです。そしておっかない。憂鬱で、耽美で、内省的、中世的、宗教的。政治色もほぼ皆無で、現実世界を生きていながら、非現実的な世界を謳い、白塗りメイクで人間社会を切り離します。逆立てた髪は天空に向かっています。そう、彼らにとっての現実は、まったく別のワンダーランドにあるのです。例えば〈死後の世界〉とか。だって〈DEATH〉やら〈DEAD〉バンド、たくさんいるんDEATHもの。SOUTHERN DEATH CULT、DEATH IN JUNE、CHRISTIAN DEATH、PLAY DEAD、DEAD CAN DANCE、DEATH CULTとかとか…。すいません、CULT関連はダブルカウントしましたが、その他にもゴス系バンドの名前は、やはり宗教的、頽廃的、幻想的なものが多いですね。「ゴスっっ!」って感じです。さらに〈ポジティヴパンク〉(以下ポジパン)という名称についてですが、ほぼゴスと同じと考えていただいて結構です。で、「なんでこんなに暗い音楽がポジティヴなんだ?」との声が届きましたが、こちらは英国お得意の音楽メディアによる造語です。

オリジナルパンクの衰退後、英国ではハードコア・パンク・ムーヴメントが勃発しました。ただ、そのハードコア、あまりに暴力的で、危ない連中が多かったものですから、〈ネガティヴ〉なムーヴメントと捉えられていたんですね。それに対する新興勢力として、真っ黒な人たちに白羽の矢が刺さった。「ハードコアよりパンクをポジティヴなものにしている」。はい、ポジパンの完成です。ちなみに〈ポジティヴパンク〉って言葉をつくったのは、音楽新聞紙のNME。〈ニュー・ウェイヴ〉って言葉は、Melody Makerらしいんです。いかに当時の音楽メディアが影響力を持っていたのかがわかりますねぇ。

音楽界で〈ゴシック〉という言葉が使われたのは、実はかなり昔だったりします。諸説あるのですが、THE DOORS、レナード・コーエン(Leonard Cohen)、アリス・クーパー(Alice Cooper)、THE VELVET UNDERGROUND、T-REX、そしてデヴィッド・ボウイ(David Bowie)などの作品やパフォーマンスに対して、〈ゴシック〉、〈ゴシック・シンガー〉、あるいは〈ゴシック・ロック〉というキーワードが用いられていました。また、〈世界初のゴスアルバム〉といわれているのが、1969年にリリースされたニコ(Nico)のセカンドアルバム『マーブル・インデックス(The Marble Index)』。ソロデビュー作『チェルシーガール(Chelsea Girl)』では、フォークポップ路線を展開し、その麗しい姿もジャケで披露していた彼女でしたが、この『マーブル・インデックス』ではいっ気にアヴァンギャルド路線へ。中世ヨーロッパの聖歌やトラッドミュージックあたりをベースに、ノイズや不協和音が溢れるダークな内容になっていたのです。その音楽的変化同様に、ジャケの彼女も〈ゴスっ子〉へと変貌。音楽、ファッション共に、その後のシーンに大きな影響を与えたことになっています。

そして、パンク時代が到来。70年代後半になると、オリジナル・パンク・シーンは衰退するも、従来のロックにおける既成概念や価値観は確実に変化したため、若人はこぞって自由に音楽探求の道を走り始めました。そのなかには、T-REXのようなグラム・エッセンスや、デヴィッド・ボウイの煌びやかな世界観を受け継ぎながら、確実に〈ポストパンク〉を奏でるセクトが登場しました。SIOUXSIE AND THE BANSHEES(以下スジバン)、MAGAZINE、THE CURE、そしてJOY DIVISIONあたりですね。彼らが奏でる陰鬱なサイケデリック・サウンドを評して、〈ゴシック〉というキーワードを、「これは便利! マジ便利!」と音楽ライターたちは繰り返しはじめたのです。更にJOY DIVISIONのマネージャーもテレビ番組で「彼ら(JOY DIVISION)の音楽はゴシックだ」と発言し、一気にその名はお茶の間にも浸透。その後、1980年代の幕開けと同時に、フロントマンだったイアン・カーティス(Ian Curtis)の悲劇もあり、JOY DIVISIONは完全に神化します。いわゆる、一般的な音楽ジャンルとしてのゴシック・サウンドとは、ちょっと離れていますが、確実にJOY DIVISIONは、その後のゴシック/ポジティヴパンク・シーンの礎となったのです。

そしてスターの登場です。ここから巷のイメージにぴったりなゴスがスタートしたといっても過言ではないでしょう。精悍なお顔のピーター・マーフィー(Peter Murphy)率いるBAUHAUS。T-REXの「テレグラム・サム(Telegram Sam)」、デヴィッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」をカバーするなど、パイセンたちへの律儀な姿勢も好印象でしたが、やはりオリジナルナンバーに溢れる妖艶な暗黒世界は、新しい時代の幕開けに相応しいものでした。BAUHAUSは、79年に、シングル「ベラ・ルゴシ・イズ・デッド(Bela Lugosi’s Dead)」でデビュー。で、このベラ・ルゴシというのは、ハンガリーの俳優で、ブラム・ストーカー(Abraham Stoker)の古典ゴシック小説を元にした映画『魔人ドラキュラ(Dracula, 1931)』のドラキュラ役の人なんですね。そんな訳で見事にピッタンコ! ピーター・マーフィーも「ドラキュラっぽい」なんていわれたりして、ゴスっ子の数は何倍にも何十倍にも膨れあがりました。

BAUHAUSが黄色い歓声を浴びていたなら、こちらはMAN汁ほとばしる雄叫び系でしょうか。KILLING JOKEです。彼らが展開したのは、メタリックなギターサウンドと骨太グルーヴ、そしてハンマービート。80年リリースのファーストアルバム『黒色革命(Killing Joke)』収録の「ウェイト(The Wait)」は、のちにMETALLICAがカバーするなど、このバンドは、メタル勢からインダストリアル勢にも大きな影響を与えました。

そしてもういっちょ大物を。ゴス界で唯一、渡哲也ばりのサングラスが似合う男、アンドリュー・エルドリッチ(Andrew Eldritch)のTHE SISTERS OF MERCY。このバンドで特筆すべきは、当初はドラマーがおらず、リズム・マシーンを使用していた点。ご丁寧にもこのマシーンには、ドクター・アヴァランシュ(Doktor Avalanche)という名前が付けられていました。80年に結成しながらも、アルバム・デビューは、シーンがひと段落した85年。その後も解散と復活を繰り返したのは、アンドリューがえらくワンマンだったからこそでしょう。さすがは石原軍団のドンですね。ちなみにここからはTHE MISSIONが派生。よりハードロック寄りのゴス・ロックで、本家を凌ぐほどの成功を収めました。

音楽メディアによるポジパン戦略もあり、シーンは82年から83年にかけてピークを迎えます。バンバン出てくるのでスピードアップさせていただきます。まずは〈ポジパン御三家〉といわれた、SOUTHERN DEATH CULT、SEX GANG CHILDREN、THE DANSE SOCIETYの3組。「これをおさえとけば大丈夫」っていわれていましたが、なにが大丈夫だったのかは今もわかりません。ちなみにSOUTHERN DEATH CULTは、のちに〈DEATH CULT〉→〈THE CULT〉となり、ハードロック化して大成功を収めますが、THE DANSE SOCIETYの方も、のちに〈SOCIETY〉になったのですが、こちらはダメでした。

元祖白塗りチャンピオンといえば、ダブリン出身のVIRGIN PRUNES。フランスのアントナン・アルトー(Antonin Artaud)の演劇論に基づいた、パフォーマンス性の強い活動をしていました。同郷U2のマブダチバンドなのですが、まぁ、両極端な2バンドになりましたね。

また、それほど成功しませんでしたが、SPECIMENもこのシーンを語るには欠かせないバンドです。というのも、フロントマンのオリー・ウィズダム(Olli Wisdom)は、ロンドン・ソーホーのゴス・クラブ〈BADCAVE〉を運営し、シーンの活性化にひと役もふた役も買った男なのだからー。ちなみに現在は、ゴア・トランス系アーティストとして活躍しています。

現在のオリー・ウィズダム. 〈Space Tribe〉として活躍中.

白塗りムーヴメントは海を渡り、米国でもドーランズが跋扈しました。それも、どう考えても似つかわしくないカリフォルニアの青いバカ、ロサンジェルスへ。45 GRAVEとCHRISTIAN DEATHです。THE GERMSやら、BLACK FLAGやら、CIRCLE JERKSやら、モンスター級のパンク/ハードコアバンドに囲まれながらも、ドロロ〜ンと暗黒音楽を展開していた心意気ったら。やっぱ80年代の米国地下事情は狂っていましたね。さらにこの流れから、〈デスロック〉なるセクトも派生したのでした。

この他にもたっぷり。THE SISTERS OF MERCYの兄弟分THE MARCH VIOLETS、THE CLASHのミック・ジョーンズ(Mick Jones)がプロデュースしていたTHEATRE OF HATE、CLASS周辺とも交流のあったUK DECAY、メタル要素も感じられたPLAY DEAD、スジバンフォロワーのSKELETAL FAMILY、KILLING JOKEフォロワーで2014年に復活した1919、THE DOORS発ゴス直行のTHE ROSE OF AVALANCHE、LED ZEPPELIN発ゴス経由で途中下車したダイナマイトロックのBALAAM AND THE ANGEL、ゴス発ニューロマ経由THE CULT着の美形双子GENE LOVES JEZEBEL、元 THE SISTERS OF MERCY+元SKELETAL FAMILY=GHOST DANCE、今もスゲエ頑張っているALIEN SEX FIEND、そして日本からはジュネ率いるAUTO-MODなどなど、ドーランの需要はとんでもないことになっていたのです。

しかし、〈ピークは82年から83年〉と申しました通り、残念ながらシーンは終焉に向かいます。前回の〈ニュー・ロマンティック〉同様、やっぱり消費されてしまいましたね。そこにはもちろん、英国メディアによるtoo muchな露出展開もあったのですが、バンドにもそれに耐えうるポテンシャルがなかった。メイクはモリモリだけど、曲のストックはモリモリじゃなかった。どんどんバンドは淘汰されてしまったのです。結局残ったのは、ゴスの壁を突き破ったアーティストたち。スタジアム級バンドに成長したTHE CURE、THE CULT、そしてソロとして活躍するスジバンのスージー・スー(Siouxsie Sioux)くらいしかおりません。

そんな時代の流れは、日出ずる国の黒服ライフにも影響を与えました。1990年に衝撃的な事件が起こったのです。私たちトランスメンのバイブルであった音楽雑誌『フールズメイト』が、100号を機に、洋楽誌『MIX』と邦楽誌『フールズメイト』にわかれるというのです。確かにあの頃のフールズメイトには、日本のヴィジュアル系バンドがわんさか載り始め、メンにとってみれば「なんだかなぁ」って感じだったわけですから、〈洋〉と〈邦〉が別々になるのは本当に嬉しかった。東のX、西のCOLORのページも、これからは黒服軍団が占領できるのです。ってなわけで、発売当日に買いに走りましたよ、『MIX』の創刊号。「誰が表紙かなぁ、100号はSWANSだったからなぁ。無難にモリッシーかなぁ」。しかし、探せど探せど、まったく見つからない。モリッシーは見当たらない。「クソ店、仕入れてないんかい!」と店員に訊ねると、ヤツが指差した先には、モリ夫でもロバ夫でもボビ男でもない、テクノロジー感溢れるカラフルな表紙のMIXが積まれておりました。「まぁ…でも…内容がちゃんとしてればね…」と逸る気持ちを抑え、自宅で表紙をめくると、そこには鈍器で脳天をぶっ潰すかのような文言が踊っておりました。

〈今すぐ、黒服を脱ぎ捨てよ。時代は動いているのだー!〉

正確ではありませんが、こんな感じでした。もう、どうしたらいいのかわかりませんでしたね。ドーランズ全否定ですよ。トランスギャルも失禁ですよ。まぁ、そんな時期だったからしようがないのもわかるんです。世はまさにレイブカルチャー、セカンド・サマー・オブ・ラブ、アシッドハウス、おマンチェの時代。ナイトライフは、ライブハウスよりもクラブ中心になっていたわけです。実際、黒服シーンは停滞していたし、英国インディペンデント・シーンの救世主だったTHE SMITHSも87年には解散。完全に〈英国発のロック〉シーンに、ぽっかりと穴が空いたのです。そこに現れたのが、THE STONE ROSESであり、808 STATEであり、HAPPY MONDAYSであり、PRIMAL SCREAMであり、KLFであり、そしてフリッパーズ・ギターなのでした。彼らのサウンドは、まさしくフロアで生まれたもの。フロアで踊っていた連中が生み出したサウンドだからこそ、めちゃくちゃリアルでめちゃくちゃパンクだった。黒服組が築いた壁なんて、いとも簡単にブチ壊されてしまったのでした。

かくいう私も黒服を脱ぎ捨てました。東急ハンズで無地キャップを買い、フロントには〈8〉と〈0〉と〈8〉のアイロンパッチをつけました。友達は〈K〉と〈L〉と〈F〉をつけました。パーカーを着てクラブに乗り込みました。いつも革ジャンだった超大御所パンクロックDJさんも、パーカー姿でJESUS JONESをかけていました。イアン・カーティスの自殺で幕を開けた1980年から奇しくもちょうど10年後の1990年。目の前で暗黒世界は終焉を迎えたのでした。

しかしゴス魂は、確実に後世に引き継がれていきます。80年代中盤に生まれたMINISTRY、KMFDM、われらがSOFT BALLETなどのインダストリアル〜EBM(エレクトロニック・ボデイ・ミュージック)シーンの流れは、〈ゴシック・インダストリアル〉になり、オルタネイティヴ・ロックからは、マリリン・マンソン(Marilyn Manson)やNINE INCH NAILSというスターが現れました。ポップパンク〜メロディックコアでシーンに躍り出たAFI、MY CHEMICAL ROMANCEも暗黒アプローチをかまし、巨匠グレン・ダンジグ(Glenn Danzig)は、MISIFITS→SAMHAIN→DANZIGと、ホラーパンク〜メタル路線を忍者のように疾駆しました。これにROB ZOMBIE、KORNなどが続きます。特にヘヴィメタル・シーンは本当に安定しておりまして、H.I.M.やCRADLE OF FAITHなどが、きっちりと〈ゴシック・メタル〉というシーンも確立。ああ、そういえばゴスとEMOの関係性も囁かれ、学園ドラマのナードたちは、このチーム所属が多いですね。

短命に終わったゴシック/ポジティヴパンク・シーンでしたが、結局それは、パンクのあとにスタートした〈ニュー・ウェイヴ〉という世界のなかの話。〈世界大百科事典〉、〈デジタル大辞泉〉の言葉を借りれば、様々な分野、様々な音楽で〈ゴス・ワールド〉が存在している状況こそが当たり前なのですよね。ただ、イアン・カーティス以降のシーンがあったからこそ、確実にその状況は広がり、根付き、大きなカルチャーになったのは事実です。ヴィジュアル系のひとたちを深夜テレビで見るたび、原宿でおかしな格好をした人たちに出会うたび、そして、ずっと大活躍しているBUCK-TICKが武道館を満員にするたびに、あの精子臭くて、虚弱のフリしてた時代が今に繋がっているんだと、甘酸っぱいステキな気持ちになるのでした。

 

ニュー・ウェイヴのススメ〈序章〉
ニュー・ウェイヴのススメ①〈ニュー・ロマンティック〉

11 Popular Songs With The Most Insane Lyrics

Songwriting is a different kind of talent. Putting words with rhythm with melody can all come together beautifully, even if there are certain parts that are, upon examination, batty, drug-induced twaddle. You can write a song that’s good, that’s popular, that’s beloved by millions in numerous languages, and yet it can have lyrics that make […]

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来日公演5秒前 超重量級師範 INTEGRITY

クリーヴランドが生んだリビングレジェンドであり、暗黒メタル・ハードコア・キングであり、現在も止まることを知らない超重量級師範といえば、INTEGRITYに間違いなし。気付いたら来年で結成30周年。もう大ベテランという今日この頃にビックリ。確かに指折り数えてみたらそうなのだが、良い意味でそこまで深い歴史観を匂わせないのは、やはり音楽的進化をずっと続けているからであろう。結成当初のパワフルなメタルコア感は保ちつつ、活動を重ねる毎に、音楽はどんどん深くなる。エクスペリメンタル、サイケデリック、ゴス、トラッド、フォーク、プログレ…様々なエッセンスがナチュラルに聯立していった。だからといって、〈武器が増えた〉とか〈カラフルになった〉なんてコタァまったくない。そんなのはスポーツメタルバンドに任せておけばいい。INTEGRITYはいつでも真っ黒、どブラックのまま、己の血肉、魂を鍛え、精進し、ヴィクトリーを掴んできたのである。

創始者のドゥイド・ヘリオン(Dwid Hellion)は、あと数年で五十路を迎えるが、現場から離れる素振りもヘッタクレもない。最新作『Howling, For The Nightmare Shall Consume』を聴けば誰にでもわかる。この男が奏でる進化型ハードコアと進化型ヘヴィメタルは、偽りなく響き渡る。Man In the Man(男のなかの男)の雄叫びと、Man In the Man(男の中野男)が愛するギターソロは世界中を駆け巡っているのである。

ジャパンツアー目の前。ドゥイド・ヘリオンが答えてくれた。

キッズの頃は、どんな音楽が好きでしたか? また、パンク/ハードコアシーンとの出会いも教えてください。


幼い頃からヘヴィメタルを楽しんでいたね。でも1984年頃にスケートボードを通じてパンクミュージックに出会ったんだ。初めて買ったパンクのレコードは、『P.E.A.C.E.(International P.E.A.C.E. Benefit Compilation)』だった。

DEAD KENNEDYS、CRASS、SEPTIC DEATH、MDC、BUTTHOLE SURFERS、CONFLICT、そしてG.I.S.M.など、世界各国のパンクバンドが収録されたコンピレーションですね。

そう。特にG.I.S.M.は特別だった。彼らの曲を聴いて、音楽の捉え方が変わったからね。G.I.S.M.からは本当に大きな刺激を受けた。

あなたがパンクキッズだった頃のクリーヴランドシーンはどんな感じでしたか?

クリーヴランドにはあとになって移ったんだ。キッズの頃はケンタッキー州ルイビルにいた。シーンはすごく盛り上がっていたよ。MAURICEというバンドがいてね、SAMHAINなんかと全米中をツアーしていたな。MAURICEは解散したあと、SLINTとKINGHORSEになった。ちなみに今はベルギーに住んでいる。もう大体15年になるね。この国の音楽シーンも最高だ。AMENRAのようなバンドがシーンに大量のクリエイティビティをもたらしているんだ。

INTEGRITYは、どのようにしてスタートしたのですか?

始めたのは16歳のときだった。まずはTシャツをつくったんだ。最初は完全な思いつきだった。そんなスタートだったのに、30年経った現在も人生の重要な部分を占めているんだから不思議だ。これまでの人生でもっとも長く続いているものだし、もっとも個人的なものでもある。

どんなバンドにしたいと考えていましたか?

自分が受けた影響やインスピレーションを混ぜ合わせた音楽をつくりたかった。例えば…SAMHAIN、SLAYER、BLACK SABBATH、MOTÖRHEAD、そしてもちろんG.I.S.M.だ。基本的には、自分が楽しく聴けるような音楽をつくりたかった。現在もジャンルの制約なんて関係なく、自由な創造性を認める音楽に挑戦しているつもりだ。
…ああ、あと80年代のヘヴィメタルを忘れていたな。初期のMÖTLEY CRÜE、VAN HALEN、DIO、TWISTED SISTER、QUIET RIOT、そしてオジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)。80年代には素晴らしいヘヴィメタル・ミュージックがたくさんあった。

INTEGRITYにもヘヴィメタルの要素は強く感じられます。

そうだね。特にギターソロは、俺たちに欠かせない要素だ。ギターソロは奥底にある感情を呼び起こし、言葉はなくても豊かな表現力をもっている。感情で心を打つんだ。

目標としていたバンド、憧れていたバンドはいました?

ひとつのバンドに憧れたというわけではないが、やはり、G.I.S.M.、SAMHAIN、SEPTIC DEATHかな。若い頃の自分にとって、とても重要なバンドだったからね。

SEPTIC DEATHといえば、PUSHEADですが、INTEGRITYのアートワークにも彼の作品がありますよね。PUSHEADとはどのようないきさつで出会ったのですか?

PUSHEADは偉大なアーティストだ。彼の作品は音楽シーンを定義づけたからね。また、彼のバンド、SEPTIC DEATHも時代を先取りしていた。俺は若い頃、PUSHEADのファンクラブに入っていたから、それ以降、彼とは何度かやり取りをしていた。アルバム『Humanity Is The Devil』のレコーディングのときに、「アートワークをつくってくれないか?」と頼んだら、幸運にも引き受けてくれた。このバンドで俺が達成した成果のひとつだ。

Humanity Is The Devil(1995)

INTEGRITYが結成された1988年といえば、YOUTH OF TODAYを代表とするユースクルー・ムーヴメントが起こっていましたよね。

そのとおり。当時のYOUTH OF TODAYやJUDGEは、積極的に活動していた。アンダーグラウンドなシーンだったけれど、たくさんのファンがいた。俺も彼らのライブに何度も行ったけれど、期待を裏切られたことは1度もなかったな。

そして90年代に入ると、STRIFEやEARTH CRISIS、MORNING AGAINなどに代表されるNEW SCHOOL HARDCORE勢が活躍していましたが、ご自身はあのシーンをどう捉えていましたか?

それほど熱心に追っていたわけではなかった。それよりも悪霊とかオカルト、そしてやはり当時のメタルシーンに興味があった。もちろん、NEW SCHOOL系バンドの友達もいたし、素晴らしい音楽をつくっていたバンドもいた。

21世紀を迎える時期になると、INTEGRITYのサウンドは、メタルコアなんてワードだけでは括れないほどカオスさを増し、完全に孤高の存在になったように思います。ノイズ、エクスペリメンタル、ゴス、そしてアコースティクサウンドまで、ナチュラルに展開するようになりましたが、どうしてこのようなアプローチを進めたのですか?

とにかくINTEGRITYは、どんなときでも俺の興味を反映しているんだ。良くも悪くも、このバンドはそうやってずっと活動している。例えば、『The Blackest Curse』(2010)は、ベルギーの画家、フェリシアン・ロップス(Félicien Rops)と、彼のオカルトへの関わりについて、俺流に解釈したコンセプトアルバムだ。

では最新作の『Howling, For The Nightmare Shall Consume』では、どんなあなたの興味が反映されているのでしょうか?

コンセプトはいくつかあるんだが、メインは、これも画家のフランシス・ベーコン(Francis Bacon)による〈この世にあるかもしれない事象(a possible reality)〉に基づいている。彼は1961年に降霊術の会を開き、そこで彼の精神は、人類の歴史における様々なオカルト現象へと運ばれた。そのあと彼は、人間に隠れる悪魔が見えてしまう能力に悩まされるが、それをキャンバスに描いて記録するようになったんだ。

その『Howling, For The Nightmare Shall Consume』は、RELAPSE RECORDSからのリリースですね。その経緯を教えてください。

2~3年前に、RELAPSEから連絡があってね。彼らがアルバム制作の話を持ちかけてくれたのは、本当にラッキーだった。彼らが支えてくれたおかげで、たくさんの新しいリスナーにINTEGRITYを知ってもらうことができたわけだからね。彼らと仕事ができて光栄だ。

『Howling, For The Nightmare Shall Consume』では、更にダークな世界観を築きつつ、耽美で、叙情的な面も強く感じました。この意見についてはいかがですか? 「まったくわかってない!」的な文句でもいいですよ。

そのとおりだよ。ダークなテーマをもつアルバムだが、それと同様のダークなサウンドに仕上がり、とても嬉しく思っている。

さらにどんどんパワフルになっている気がします。若々しくなっている気も。

ああ、ありがとう。このバンドにはヴァンパイアのようないち面があってほしいと思っている。でも、すでにそうなっているのかな(笑)
。

INTEGRITYは、来年で結成30周年を迎えます。たくさんのバンドが活動をストップしていくなか、どうしてここまで長く活動を続けられたと考えていますか?

INTEGRITYは、俺の個人的な捌け口だからね。俺が辞めない限りバンドを解散する理由は何もない。まぁ、たまに休止期間もあるけれど、今のところは、やる気に満ち溢れている。次のアルバム制作もすでに始めているんだ。

ソロアルバムなどを出す予定はありませんか? NEUROSISのスコット・ケリー(Scott Kelly)やスティーヴ・ヴォン・ティル(Steve Von Till)のような、ヴォーカルアルバムを聞いてみたいのですが。

まぁ、そうだな。機会があれば考えてみたい。

R.U.G.(ランディ内田グループ)の「Deathly Fighter」をカバーしていますが、なぜこの曲を選んだのですか?

ランディ内田は、G.I.S.M.の活動でも、ソロでも豊かな才能を発揮していた。特にこの7インチの曲が大好きだったんだ。

きっちりと日本語で歌われていますね。

友達のケミーが手伝ってくれたんだ。彼がいなければできなかっただろう。

本当にG.I.S.M.がお好きなんですね。

ああ。G.I.S.M.は、いつでももっとも大切なバンドだ。彼らの音楽は、何度聴いても全く飽きない。

日本のパンク/ハードコアシーンにも詳しいようですね。

日本には素晴らしいバンドがたくさんいる。世界でもっとも攻撃的で、クリエイティブな音楽シーンのひとつだ。CREEPOUT、DÖRAID、ZOUO、WARHEADとかね。最高のバンドばかりだ。

そして来日です。日本のファンには、INTEGRITYのどんな部分を見て欲しいですか?

日本のファンには、想像力を広げ、INTEGRITYを新たなクリエイティビティとして解釈してほしい。彼らの想像力を広げて、音楽と融合させ、彼らの精神をどこかへ連れていきたい。とにかく、また日本に行けるのをとても楽しみにしている。日本でパフォーマンスをするのが大好きなんだ。今回のツアーを組んでくれたCREEPOUTのKunihydeには本当に感謝しているよ。

§

INTEGRITY with CREEPOUT JAPAN TOUR 2017

10月6日(金)新宿 ANTIKNOCK
10月7日(土)四日市 CLUB CHAOS
10月8日(日)大阪 火影
10月9日(月)新大久保 EARTHDOM

日本ツアー詳細はコチラ

東京公演フライヤー

四日市公演フライヤー

大阪公演フライヤー

MusicaXAdulti

MusixaXAdulti è un esperimento di post-clubbing curato dalla crew milanese Inciso.

Una volta ogni due mesi, fino ad Aprile, il Tunnel Club ospiterà una vera e propria esperienza che trascende i confini musicali, coinvolgendo artisti, architetti e professionisti dell’intrattenimento costruendo quattro percorsi di senso: Natura, Corpo, Vizio e Spirito. Ognuna di queste entità verrà rappresentata sia in digitale che utilizzando la materia più fisica.

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Come venerdì 6 ottobre, quando a confrontarsi sul tema della Natura saranno Fuzz Atelier – collettivo che curerà la scenografia – e l’artista Cedomir Pakusevskij, autore di “Nature Scan”. Nature Scan è un’installazione interattiva in cui un raggio laser scansiona la natura circostante (un bosco poco fuori Milano), analizzandola come se l’uomo fosse appena atterrato sul pianeta Terra, con un rigore e rispetto ormai perduti.

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E la musica? Sarà curata dai dj di Inciso, alcuni dei volti più noti in città quando si parla di clubbing.

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パンクを勘違いしているサブカル好きに贈る『MOTHER FUCKER』

これまでトクマルシューゴ、DEERHOOF、奇妙礼太郎、BiS階段のミュージックビデオ、ライブ作品などを手掛けてきた映像作家の大石規湖が、劇場長編作『MOTHER FUCKER』で映画監督デビューした。この作品のメインキャラクターは、U.G MAN、GOD’S GUTS、そして現在はフォークシンガーのFUCKERとして活動し、音楽レーベル〈Less Than TV〉の代表を務める谷ぐち順と、その妻であり、Limited Express(has gone)、ニーハオ!を率いるYUKARI、そしてひとり息子の共鳴(ともなり)。最低だけど超最強で、ダサいけど超クールで、まったく偽りのない超現在進行系の〈パンク生活〉を映し出したドキュメンタリーである。構想開始から6年、撮影期間は1年と2ヶ月。とんでもなく濃ゆい〈谷ぐち一家〉との超蜜月を経て、監督・大石規湖も家族のいち員になった。ビッグダディも驚愕するビッグファミリーのひとりになった。

早速ですけど、おもいきったタイトルを付けましたね。

そうですね(笑)。製作会社のキングレコードのスタッフさんが、海外展開も見据えて映像リンクを送ったそうなのですが、なかなか視聴履歴が確認できないといっていました(笑)。

うちでもSNSで告知させていただいたのですが、自動サムネイル表示がされませんでした。

そうなんです。〈不適切な表現〉だそうで。あと迷惑メールになる確率も高いようです。メールのやり取りができないと、みなさんボヤいてらっしゃいます(笑)。

大変ですね(笑)。このタイトルは大石監督が付けたんですか?

いえ、谷ぐちさんです。まだ何もきちんと決まっていないのに、電話をいただきまして。「映画のタイトル決めました。『MOTHER FUCKER』です」と。〈MOTHER〉が奥さんのYUKARIさん、そして〈FUCKER〉が谷ぐちさんなんです。

ああ、なるほど! では、その〈MOTHER〉と〈FUCKER〉おふたりの映画を撮り始めたきっかけをおしえてください。

元々、映画というのは頭になかったんです。ただ、〈谷ぐち家〉を、ずっと撮ってみたかった。

どうして〈谷ぐち家〉だったんですか?

フリーランスになって、好きなバンド、自分がいいと思えるバンドを、いろんなライブハウスで撮り続けていた時期があったんですけど、たまたまYUKARIさんのLimited Express (has gone?) のリハーサルに出くわしたんですね。そしたらYUKARIさんは共鳴くんをおんぶ紐で背負いながらリハをやっていて、谷ぐちさんはそのときメンバーではなかったんですが、一緒にサウンドチェックをやってたんです。おふたりで言い合いなんかしながら(笑)。

それまで谷ぐち家の皆さんとは面識があったんですか?

もちろんライブも観ていましたし、ご夫婦という関係も知っていましたが、お話しする機会はありませんでした。ただそのとき、ご夫婦、そして家族がいっしょにいる光景に衝撃を受けまして。「ライブハウスなのに、家庭という空間ができちゃってる!」ってすごくビックリしたんですね。またそのときは、自分の状況にもモヤモヤしていたんです。せっかくフリーランスになったのに、好きなこともできていない、お金もない、生活も苦しい、不規則な生活を続けている、彼氏もいない…と(笑)。

はい(笑)。

生活と仕事、両方ともバランスが悪い状況のなかで、やりたいことのなかに家族、そして生活が共存している谷ぐち家の姿を見て、「この人たちは何なんだ!? スゲエぞ!」と。それにパンクとかハードコアって、やはり生活と音楽が密接につながっているじゃないですか。その様を目の当たりにしたもんだから、「うわーっっ!!!!」ってなっちゃったんです。それが6年くらい前ですね。

そして、「ご家族を撮らせてください!!」って頼んだんですか?

 いえ、まだです。勇気がなくて(笑)。「METEO NIGHT撮らせてください」って潜り込んだり、younGSoundsのモリカワさんに「映像を撮りたいんですけど、谷ぐちさんは受けてくれると思いますか?」なんて訊いてみたり。コソコソと探っていました。

そのときモリカワさんは、なんていってましたか?

「いやぁ〜、谷ぐち君は、そういうの嫌がるからねぇ〜」って(笑)。以前、Less Than TVのドキュメンタリーをつくる企画があったそうなんですが、ヒストリーものだったので、谷ぐちさんは断っていたそうなんです。

では、そんな敷居の高い谷ぐちさんを、どのように説得したのですか?

コソコソ活動をしているうちに、谷ぐちさんの耳にも「大石なんちゃらが映像を撮りたいらしい」って話が入っていたようで。その後、2014年の怒髪天の武道館公演で、たまたま谷ぐちさんに会いまして、そしたら「大石さん、MV(ミュージックビデオ)をつくってくれませんか?」っていわれたんです。YUKARIさんと一緒にやっているユニット、FOLK SHOCK FUCKERSの〈イン マイ ライフル〉のビデオだったんですけど、「ああ、やります!」って即答して。

ドキュメンタリーではなく、まずはMVで試されたと?

そんなことはないと思いますけど(笑)、でもそのときに意を決して、「谷ぐち家を撮りたいんです」と、直接お願いしました。でもその後も「そうですかー」くらいで、うやむやにされていたので、これはダメだなと考えていたのですが、2015年の11月に谷ぐちさんから突然電話がかかってきまして、「大石さん、なんか映画みたいのを撮りたいっていってましたよね」って。

いきなりですか?

はい(笑)。それで「ええ、まぁ」なんて答えていたら、「いいこと思いついたんですよ」って。…たまに今でも電話かかってくるんですけど、こういうときの谷ぐちさんの〈いいこと〉ってロクな話じゃないんです(笑)。

でもこのときはロクな話だったと(笑)。

まぁ、そうですね(笑)。「映画のタイトルを決めました。『MOTHER FUCKER』です」と。

ここですか!

そうなんです(笑)。いきなりタイトルからスタートしたんです。「MOTHERがYUKARI、僕がFUCKERです。大石さん、一緒にやりましょうよ!」と。

すごい展開ですね。

でもなにも決まっていませんでした。だけど、私は家族が撮りたかった。谷ぐちさんは、〈MOTHER〉と〈FUCKER〉といってくれた。お互い意思確認はしていなかったのですが、ここで合致した部分があったんです。それで2015年の年末から撮り始めました。

でも、『MOTHER FUCKER』以前の大石監督は、トクマルシューゴやDEERHOOFなど、様々な〈大好きなバンド〉のMVで活躍されていましたよね。先ほど「フリーランスになったのに、好きなこともできていない」とおっしゃっていましたが、どんな状況だったのですか? ちょっと意外に感じたんですが。

おこがましい話なんですけど、MVをつくっても、アーティストのためになっているのかな、という気持ちがずっとあったんです。そのときは100%出し切ったつもりでも、「もっとやれたんじゃないか」と振り返る場面も多かったですし。大好きな音楽に対しても、まだ恩返しできていない、伝えられていないのでは、とずっと考えていました。

その答えを出すために、映画、もしくはドキュメンタリーをやってみたいと、元々考えていたのですか?

いえ、それもありませんでした。MVでもYouTube映像でもよかったんです。ただ、フリーランスになって、川口潤監督の『kocorono』の製作に関わらせていただいたんですね。これまで映画業界の人が音楽映画をつくるパターンは知っていましたけど、音楽業界の人が映画をつくるパターンは初めてでした。映画なんてまったく別世界の話だと思っていたんですが、『kocorono』を手伝わせていただき、こういう方法もありなんだ、こういう手段で音楽を伝えるのもありなんだと、教えてもらったんです。

でもいきなり『kocorono』っていうのもすごいですよね。とても濃いドキュメンタリーじゃないですか。

 確かに濃い経験でした(笑)。それにペーペー過ぎて、何を訊いたらいいのか、何を撮ったらいいのか、ドキュメンタリーってなんなのか? まったくわからなかったんです。〈監督補佐〉ってポジションをいただいたんですが、ライブ撮影しか手伝えていないなって。「本当にすいません」って感じでした。

「ドキュメンタリーなんて、もうやりたくない!」ってなりませんでしたか?

まぁ、初めのうちは(笑)。最初の現場撮影のとき、ブッチャーズの吉村さんの体調が悪かったんです。車のなかのシーンだったんですけど、吉村さん体調悪いから、携帯いじっているだけで。それこそ、この場面はどうしたらいいんだろう、この人に何を訊いたらいいんだろう、「体調悪いんですか?」って訊いても「うん、悪い」で終わるだろうし、この空気耐えられないって(笑)。ただ、被写体の感情のいっせんを越えなくては、撮影にならないっていうのは、ここで覚えました。でもそんなに簡単にできることじゃない。『MOTHER FUCKER』の撮影当初も、なかなかそれが越えられなくて、「泊まりにきてよ」って谷ぐちさんからいわれても、「いやぁ、ちょっと…」なんてごまかしていたんです。

監督と谷ぐち家とのあいだには、壁があったと。

というか、私にあったんです。最初は本当にビビってました(笑)。ただ、谷ぐちさんにはありませんでしたね。〈イン マイ ライフル〉のPV撮影のときから、「これうまいですよー。ほら食って」って食べかけのおにぎりを渡されたんですよ。「エエーッ!!」なんて恐縮しながらも、しようがないんで「ああ、美味しいです…」って気を使って食べて。本当に谷ぐちさんは、自然のままでしたね。

共鳴君はいかがでしたか?

やはり最初は身構えていました。いきなりカメラウーマンきてるし、撮られてるし。それに元々人見知りらしいんです。泣いてるところを撮ろうとすると逃げちゃったり。でもなんとか1ヶ月くらいで慣れてくれて、友達みたいな関係になりました。

この映画は、共鳴君のバンド、チーターズマニアの初ライブが、時間軸となって進んでいきますが、元々、ライブのことは知ってたんですか?

いいえ。彼がバンドをやっているのは知っていましたが、撮影を始めた頃はライブ計画もあがってなかったんです。ただ、撮っているあいだに、自然と共鳴君が「ライブをやりたい」といい始めまして。「ああ、やった! 軸ができた!」って内心思いました。ライブが無かったら、まだ撮り続けていたかもしれないです(笑)。

ちなみに谷ぐちさんは、監督をご家族に紹介したんですか? 例えば「はーい、今日から撮影が入りますー。大石規湖さんでーす。ふたりともよろしくー」とか。

まったくなかったです(笑)。まぁ、入口もフワッとしていたんですね。ライブ撮影からスタートして、そのままの流れで家に入り込んだので。さらにいうと共鳴君には、映画撮影だといってなかったんですよ。

うわー酷い大人ですね(笑)。いつ暴露したんですか?

完成して、プレビューの初日にいいました。「今日なに観るか知ってる? あのねー、ずっと私カメラで撮ってたじゃん。あれねー、共鳴君の映画だったんだよ」って。「えーマジで!!」っていわれました。

本人は喜んでいたんでしょうか?

プレビュー中は、ずっと恥ずかしがって、観たり、観なかったり、どこかに隠れたり(笑)。でも公開初日もいっしょに観たんですけど、「ああ、このときかー」とか「こんな風に撮ったんだー」とか「こんな音入れたんだー」なんて、喜んでくれて。やっぱり8歳の子供じゃないですか。自分の映画で、自分が出ていて、それをお客さんが観て笑っていたら、トラウマになってしまうのではないかとも考えていたんです。正直すごく心配だったので、本当にここは安心しましたね。

ではYUKARIさんとのご関係はどうでしたか?

谷ぐちさん同様に、普段のままに接してくれました。逆に私の方がまだ(笑)。やっぱりYUKARIさんって、エキセントリックなライブをしている方だし、バンドのフロントとして、自分の世界をしっかり築いている方じゃないですか。だから触れちゃいけない部分もあるんじゃないかと思って、勝手にあまり入らないようにしていたんです。まぁ、ビビってたんですけど(笑)。

じゃあ、監督がご自身の壁がぶっ壊れたのはいつですか?

撮影を始めて1ヶ月後くらいです。共鳴君がインフルエンザにかかったときですね。

ああ、あのシーンは、かなり最初の出来事だったんですね。共鳴君がインフルエンザになってしまったのに、YUKARIさんは大阪のライブに行かなくてはならない。

はい。新幹線でいっしょに大阪に向かっているときに、車中でインタビューをしたんですけど、そのときに昔のことから、映画にも、ここにも載せられないことまで(笑)、感情を露わにめちゃくちゃ話してくれたんです。「ああ、ここまで話してくれる人なんだ」って。そのときに私の壁が見事に崩れましたね。

撮影はどれくらいされていたんですか?

1年と2ヶ月ですね。

最初はなにも決まっていなかったとおっしゃっていましたが、どのあたりから作品の構想が固まったのですか?

うーん、ある程度頭のなかには生まれていたんですけど、それもどんどん壊れていって(笑)。最初はカッコイイもの、クールなものにしたかったんですよ。ドキュメンタリーだから、家族とも距離を保って、ストイックな感じ…DISCHORDスタイルですよ。

はい(笑)。

そんな自分の気持ちと谷ぐち家を通じて、日本各地のアンダーグラウンドシーンを見せつつ、あわよくばU.G MANを撮れたらいいなあって。それが私の構想でした。しかし、撮影が始まったらトラブルばかりが起こる。インフルエンザもそうですけど、考えてもいなかった場面ばかりに遭遇するわけです。それで撮影から2ヶ月が経って、もうこれはしようがないと。撮ろうと考えていたものを撮ろうとしても撮れないんだから、考えるのをやめて、その場に起こったことをすべて受け入れるようにしたんです。それでも都度、整理はしていたんですけど、やっぱりそれ以上のなにかが起こる。それ以上の楽しいなにかが生活のなかに起こるんです(笑)。実際、私も楽しんでいたので、DISCHORDスタイルはやめにしました(笑)。

谷ぐち一家にも、「DISCHORDスタイルはやめにしました。みなさんの生活に重きを置きます」と伝えたんですか?

 いえ、ちゃんと伝えませんでしたけど、元々、谷ぐちさんは生活を撮って欲しかったみたいなんです。自分の生活がパンクであり、バンド活動であると。こんなにダサいけど、ダサくなっているけど、これこそがパンクだと。それに私も撮影を通じて、いろんなバンド関係の方々と会ったのですが、みなさんの信頼関係とか、ネットワークとか、思いやりとか、仕事とか、それぞれの行動が、すべてパンクのなかにある生活だと感じたんです。これまでは〈両立〉って考えていた。「バンド活動と仕事の両立、大変だけど頑張ってらっしゃるなぁ」って。でも違ったんですね。例えば、谷ぐちさんは介助のお仕事をされていますが、その話をしていても、結局はパンクにつながるんです。全部一緒。〈生活=パンク〉なんだということが強くわかったんです。

そして監督も影響されてパンクスになったと?

まあ、感化はされましたね(笑)。この前、おじさんがひとりで切り盛りしている小さな古いフグ料理屋さんに行ったんですけど、そこのおじさんはサービス精神が旺盛で、忙しいのに最大限のサービスをめちゃくちゃしてくれたんです。そのとき「ああ、これぞパンクだな」って感心したので、やはり影響されたんでしょうね(笑)。

ただ、ちょっと思ったんですけど、この映画は生活感が出過ぎているのかな、とも。例えばFUGAZIだったら、活動スタイルや音を聞けば、ある程度彼らの生活が見えるじゃないですか。

そうですね。写真1枚でわかる場合もありますよね。

だから、個人的にはそれで十分じゃないかとも考えたんです。プライベートを知るのは、谷ぐちさん周辺の音楽を聴くのに必要なのか、どうなのか。

うーんと、あの人たちは〈ロックスター〉ではなく、〈パンクスター〉ではなく、〈パンクヒーロー〉だと思うんです。

〈パンクヒーロー〉ですか?

はい。「助けてー!!」って叫んだら、「オースッッ!!」って、助けに来てくれるパンクヒーローなんです。スターは近くに寄れないけど、ヒーローは来てくれる。この映画に出ている人、みんな来てくれる。パンツ一丁で来てくれるんです。もちろん、みなさんの美学を壊さないように気をつけてはいましたけど、やはり近づけばパンクヒーローだし、そういう人たちだし、ありのままがかっこいい。そこを伝えなければ意味がないと思ったんですね。ドキュメンタリー監督って、こういったインタビューでも客観的になれる話ができるくらいがいいのほうが良いかと思っていたのですが、私は根本的なところに「パンクヒーロー最高! こいつら最高!」って叫びたいんです。ドキュメタリー監督としては失格なんでしょうけど(笑)。

聴き心地の悪い作品とポストハードコア終焉作で全米王座に輝いたBRAND NEW

せっかくメジャーデビューしたのに、大きなレーベルに移籍したのに、記念すべき船出の作品なのに、実に〈聴き心地の悪いアルバム〉をリリースする人たちがいる。しかしそれらは、とても素晴らしい〈聴き心地の悪いアルバム〉だ。JAWBREAKERは『Dear You』(1995)で地味泣きし、SHUDDER TO THINKは『Pony Express Record』(1994)でヨレヨレセクシー路線を。哀愁EMOコアで疾走すると予想されたTHE PROMISE RINGは、『ウッド / ウォーター(Wood/Water)』(2002)でルーツ回帰し、NIRVANAの後を追うと思われたSURGERYは、『Shimmer』(1994)でブルブルブルージーに。さらにTHREE MILE PILOTは、メジャーでは考えられないほどのダークなアルバム『The Chief Assassin To The Sinister』(1995)を、前作でエクスペリメンタルアプローチをかましたFIRESIDEは、『Get Shot』(2003)で恐ろしくぶっ壊れたR&Rをかましてくれた。従来に比べると、制作費もアップし、流通形態も万全になり、サポート体制もバッチリになったハズ。なのに、肝心の作品の聴き心地が悪い。ホントこういうの大好き。特にオルタネイティヴシーンが活気付いた90年代中盤以降の米国にはこのようなパターンが多かった。〈次のNIRIVANA〉を見つけるべく各大手レーベルは、こぞってインディペンデントアーティストと契約し、一攫千金を狙った。おかしな時代だった。BUTTHOLE SURFERSやTHE JUSUS LIZARD、TAD、ボアダムズ、WEEN、ダニエル・ジョンストン(Daniel Johnston)なんかがメジャーに所属し、ド田舎のガソリンスタンドにもスーパーマーケットにも変人の作品が並べられていたんだから、どう考えても狂ったバブル期だった。しかも、これらのアーティストの手綱をつかんだ経験のなかった大手レーベルは、本人たちをどう扱っていいものかわからなかった。担当A&Rたちも「いいね〜、キミたち。本当にクールだね〜」だけで進めていたに違いない。だからこそ〈聴き心地の悪い作品〉が世に出はじめた。ストップをかけられる人間が周りにいなかった。「これじゃ商売にならない」と考えられる人間が周りにいなかった。要するに純粋にアーティスト、バンド主導で製作が進められ、素晴らしい〈聴き心地の悪い作品〉が生まれたのだ。結果的にこのようなアプローチが成功したのか失敗したのかは置いておいて、メジャーデビューだろうがなんだろうが関係なく、戸惑うファンの姿も視野に入れず、その時のバンド状態をさらけ出せば出すほど、音楽は美しくなる。未熟でも未完成でもいい。聴き心地が悪くていい。でもそこには完璧なフルチンがある。生きているバンドによる、未来に繋がるフルチンがあるのだ。愛おしくてしようがない。

BRAND NEWの『The Devil and God Are Raging Inside Me』も完璧なフルチンアルバムである。リリースされたのは2006年だから、〈オルタナバブル〉の例にはあてはまらないのだが、それでもこの作品は、素晴らしい〈聴き心地の悪いアルバム〉だった。

ニューヨーク州ロングアイランドにて2000年に結成されたBRAND NEWは、当初Aランクのエモバンドであった。しかし、Aランクでありながら特別ではなかった。デビューアルバム『Your Favorite Weapon』(2001)には、ティーンエイジャーが歓喜する極上のエモポップ・ソングで溢れていた。セカンドアルバム『Deja Entendu』(2003)になると〈ダーク&号泣〉アプローチがアップされていたが、それでもA+になったくらいだった。しかし、サードアルバムにして、〈Interscope Records〉からのメジャーデビュー作である『The Devil and God Are Raging Inside Me』で、一気に様相は変わる。あまりにも暗く、あまりにも内省的で、あまりにも重いこの作品は、BRAND NEWを完全に孤高のバンドへと導いた。RADIOHEAD、MODEST MOUSE、THREE MILE PILOT、SUNNY DAY REAL ESTATEあたりが引き合いにされ、インディー・ロック、エクスペリメンタル・ロック、ポスト・ロック、エモの境界線上に佇みながらも唯一無比に展開するサウンドは、まさしく進化するハードコアの精神…ポストハードコア魂に溢れていたのだ。

『The Devil and God Are Raging Inside Me』、即ち〈悪魔と神が私のなかで荒れ狂っている〉を放ったBRAND NEWのメンバーたちは、同作の制作前に何らかの病気や家族の死などに直面していたという。そしてこの死生観を揺るがす経験が、アルバムのテーマになっている。

イエス・キリストよ、俺は死を恐れない。ただ死後が少し怖いだけだ。俺は金の馬車に乗ったり、天上でゆったり浮遊していられるのか?

ヴォーカルのジェシー・レイシー(Jesse Lacey)は、「Jesus Christ」のなかでそう歌っている。また彼は、7歳の少女が叔母の結婚式でフラワーガールを務めた数時間後、飲酒運転による事故の犠牲で亡くなった、というニュースに触発され、「Limousine」を書いた。

現世にいない私たちは、もう墓を用意しなくてもいい。土の中に埋められて、一緒に腐っていく必要もない。

この曲はそんな歌詞で締めくくられている。

各方面から大絶賛された『The Devil and God Are Raging Inside Me』は、まったく別の方向に進み、ヴィジュアル化〜商業化した当時のエモシーンにとてつもない衝撃を与えた。また、特筆すべき点は、このアルバムがセールス的にも大成功を収めたという事実である。先に述べた〈聴き心地の悪いアルバム〉は、やはり時代的に早すぎた。それだけの作品を受け入れる体制が、売る側にも聴く側にも整っていなかった。しかし、『The Devil and God Are Raging Inside Me』がリリースされた2006年には、既にオルタネイティヴロックは日常ジャンルになり、さらにRADIOHEADの『キッドA(Kid A)』、MODEST MOUSEの『バッド・ニュースを好む人へのグッド・ニュース(Good News for People Who Love Bad News)』、TOOLの『Lateralus(ラタララス)』、WILCOの『ゴースト・イズ・ボーン(A Ghost Is Born)』など、これまではチャートと無縁だった非ポップ作品がセールス的に成功を収めていた。そう、ロックファンには準備ができていた。ロックファンが〈聴き心地の悪いアルバム〉を望む時代になっていたのだ。また、『The Devil and God Are Raging Inside Me』は、制作スタッフにも恵まれていた。この作品のA&Rは、現在〈Beats by Dre〉のプレジデントを務めるルーク・ウッド(Luke Wood)で、元々インディペンデントシーン出身のバンドマンでもあった彼は、AFI、JIMMY EAT WORLD、TV ON THE RADIO、そしてエリオット・スミス(Elliott Smith)などを手掛けており、この手のアーティストの発掘と育成に長けていた。彼は、BRAND NEWのリアルなオリジナリティを尊重しながら、見事に手綱を引いていたのだ。その結果、『The Devil and God Are Raging Inside Me』は、ビルボード総合アルバムチャートで31位を獲得。聴き心地が悪い、フルチンのアルバムは大勝利を収めたのだ。

続いてBRAND NEWは、2009年に4thアルバム『Daisy』を発表する。『The Devil and God Are Raging Inside Me』に比べると、コンパクトな楽曲が並んだ作品であったが、BRAND NEW節というべき号泣メロディと、エクスペリメンタルな世界観が確立され、ビルボード総合アルバムチャートでは、『The Devil and God Are Raging Inside Me』を大きく上回る初登場6位にランクイン。完全にエモキングとして君臨する。しかし、そこからバンドは停滞を余儀なくされる。何度も新作のレコーディングに入ったとのニュースは届くものの、一向にそれはリリースされず、Interscopeとの契約も切れる。自ら設立したレーベル〈Procrastinate! Music Traitors〉から、シングルや未発表曲などをリリースするも、気がつけば『Daisy』から8年が経っていた。また、2016年に発売した彼らのTシャツには、〈BRAND NEW 2000-2018〉という文字がデザインされており、2018年中にバンドが解散するという噂が巡り回った。フロントマンのジェシー自身もライヴの最中に「We’re done(もう終わった)」という発言をしており、新作が出ないまま、BRAND NEWは2018年を迎えるのではないかと憶測されていたのだ。

しかし、2017年夏、それはいきなりアナウンスされた。8月15日、オフィシャルサイトでBRAND NEWのニューアルバムの予約が開始されたのだ。なんの前触れもなく、実に居心地の悪いタイミングであった。さらにその2日後の8月17日には、ニューアルバムの限定アナログ盤の予約者500人に、なんとも不気味なハンドメイドCDが届けられた。そのタイトルは『44.5902N104.7146W.』。これは、映画『未知との遭遇』(Close Encounters of the Third Kind, 1977)で知られる、ワイオミング州北東部の岩山〈デビルズタワー〉の地図座標であった。幸運にもこのCDを入手したあるファンは、収録時間61分のこの作品を、音楽認識アプリ〈Shazam〉で確認したみたところ、アートワークと共に、以下の情報が認識されたのである。

Brand New Album : Science Fiction Released : 2017

そう、届けられたCDは、BRAND NEWの5thアルバム『Science Fiction』であった。さらに同日の米国東部時間17時には、『Science Fiction』のダウンロード販売がスタート。また、ストリーミングサービスにもドロップされ、全世界中のBRAND NEWファンは狂喜の渦に飲み込まれた。そして各メディアは、こぞってこの事件を報じたのであった。

しかし、これだけで騒ぎは収まらなかった。『Science Fiction』のフィジカル(レコード・CD)リリースは、10月18日を予定しているものの、今作はダウンロード及びストリーミングだけで、ビルボード総合アルバムチャートで初登場1位を獲得してしまう。2017年における、この〈フィジカル無し〉での奪首は、ドレイク(Drake)の『More Life』、フューチャー(Future)の『S/T』と『HNDRXX』、ミーゴス(Migos)の『Culture』、ビッグ・ショーン(Big Sean)の『I Decided』のみで、ロックバンドとしては今年初。また、そのロックバンドによる2017年のこれまでのチャート1位獲得は、ARCADE FIREの『エヴリシング・ナウ(Everything Now)』と、LINKIN PARKの『ワン・モア・ライト(One More Light)』というビッグバンドの2作品のみ。さらに『Science Fiction』は、大手ではないインディペンデント流通による2017年初の1位獲得アルバムでもあった。こうして、とんでもない記録を次々に打ち立てたBRAND NEWにメディアは驚愕し、翻弄されてしまったのだが、同時にリアルなシーンは、やはりファンの手中にあるという事実が、皮肉にも露呈されたのだから最高に痛快極まりない。歴史的名盤とされる『The Devil and God Are Raging Inside Me』が蒔いた種は、10年の時を経て、メディアの予想以上に大きく花開いたのだ。

そんな大ヒットアルバム『Science Fiction』の肝心の内容であるが、1位を獲得したからといって、やはり万人が受け入れられるようなアルバムではないし、炭酸飲料のCMソングに使用されるような曲も収録されていない。オープニングの「Lit Me Up」からして暗い。重い。怖い。そしてBRAND NEWにしか生み出せない嗚咽メロディが続く。苦しいヤツ。当然の如くBRAND NEWにしか生み出せないエモが溢れまくっていた。ただ、ひとつ確実にいえることがある。今作は〈聴き心地の悪いアルバム〉ではなかった。もちろん、初期のエモポップ時代に戻ったのでもない。BRAND NEWというバンドが、〈2017年のBRAND NEW〉というファンの幻想に見事にハマった気がするのだ。『The Devil and God Are Raging Inside Me』、そして『Daisy』に比べると、実に落ち着いたアルバムである。そして美しい。従来からのエクスペリメンタル・ロック、ポスト・ロック、そしてプログレあたりのエッセンスも感じられるのだが、ジャンルレスに均されたそれらの音は、すべてソフトに丸みを帯びながら、淡々と奏でられていく。同時に、これまではあまり感じられなかった煌びやかなサイケデリック〜スペーシーサウンドの眩さといったら! ヘヴィでありながら、メロディがそれらをガッチリ包み、生々しく放たれる唄心。そう、『Science Fiction』の柱は唄心である。エモポップから実験的なアプローチを経て、遂に辿り着いたまっすぐなエモ唄心には、ポストハードコア臭が感じられない。また、進化を望むBRAND NEWの姿も見えない。でもそれらが必要ないほど『Science Fiction』は、BRAND NEWがストップするのに相応しい、実に感動的なラスト・アルバムに仕上がっていたのだ。

これまで個人的には、「どれだけ未来を感じられるか?」「どれだけ進むのか?」「次作ではどんな風に裏切ってくれるのか?」「安定したらお終い!」、そればかりを考えて、バンドに接していたのだが、BRAND NEWには、心から「お疲れさま」をいいたい。『Science Fiction』を締め括るラストの「Batter Up」を迎えたとき、もうこれ以上は無理、これ以上聞きたくないと感じてしまった。本当に美しく、せつなく、優しく、大きく心を揺さぶられるナンバー。ここで終わりだ。BRAND NEW自体もこの曲で締め括るのだ。正式アナウンスはされていないが、〈2000-2018〉は間違いないだろう。BRAND NEWは、最後の最後に素晴らしすぎる〈聴き心地の良いアルバム〉をつくってくれたのだから。オルタナバブルから20年以上。まさかこの時期になって、納得できるポストハードコアの終焉に出会えるとは、夢にも想わなかった。

サッチャー政権下の労働者階級 〈カジュアルズ〉とフレッドペリー 02

90年代スポーツスタイルを代表するアイコニックなアイテムであるバケットハットを、当時のロゴを使用し、縫い目に沿ってシームテープを施した、雨風に強い仕あがりになっている。FRED PERRY オフィシャルサイト Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

当時のテニスウェアのアーカイブをもとに、ブラックボディで90’sスタイルにアップデートしたナイロンジャケット。FRED PERRY オフィシャルサイト Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

英国の多くのサブカルチャーにおいて愛されてきたフレッドペリー。スポーツウェアをストリートに落とし込んだサブカルチャー、カジュアルズ。80年代の英国社会において大きな影響力を持ったサッチャー政権。前回の記事では、ブランド、サブカルチャー、社会情勢についてみてきたが、今回の記事は、これらがどのようにクロスオーバーしていったのか、そして、80年代に起きたこの現象が、90年代初頭、そして現代に、どのような影響力を持ったのか、紹介したい。

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

サッチャー政権は自由競争を促進させるため、規制緩和と民営化を進め、福祉国家を解体した。それにより労働者階級では失業者が続出した。労働者階級から生まれたカジュアルズは、虐げられた環境で、何を感じ、考え、行動したのだろうか。そして、なぜサッカーとファッションに熱狂したのだろう。

『i-D』のデクラン・ヒギンス(Declan Higgins)は「サッチャーの政策によって、道はゴミだらけで、電力供給が安定せず停電が頻繁に起こるほどの影響を英国全土に及ぼしたが、特に労働者階級への打撃が大きかった。しかし、同じ労働者階級のカジュアルズは、金がなくとも、身なりを大切にした。高級な服を買っていた者もいたが、正規に買った製品ではなかったかもしれない。ただ、彼らは貯蓄し服を買う行為自体に誇りを持っていた。服は彼らの結束を示すものだったからだ」と話す。

ICA(ロンドンの現代美術館)のコミュニケーション部の主任として、またロンドン芸術大学での講師やフリーランスのライターや編集を務めるダリオシュ・ハジ=ナジャフィ(Daryoush Haj-Najafi)は、次のように語った。「カジュアルズとサッチャーの関わりは2つある。ひとつは、カジュアルズのカルチャーは物質主義であること。80年代初めのスパンダー・バレエやデュラン・デュランのようなバンドは、パンクが掲げた反物質主義を否定した。同じように、カジュアルズは、どこか虚無的(ニヒリスティック)かつ快楽主義的だった。資本主義を否定し、ストライキを起こし闘っていた多くの労働者階級に対し、カジュアルズは人生全般において楽しもうとした。つまり、カジュアルズのニヒリズムは、労働者階級としての革命を目指すよりも、洗練されたヨーロッパの豊かさに憧れ、幻想のなかで生きることに魅力を感じてユースカルチャーに想いを馳せたのだ。結局、英国では労働者による革命は生まれず、労働組合は力を失い、仕事は激減した。

もうひとつ、カジュアルズは外国文化に興味を持った。当時は右派へと傾倒していったスキンヘッズが愛国を訴えた。カジュアルズはイギリスは世界一ではない、とスキンヘッズのマインドを否定した。英国のブランドも着ていたし、中には右派も大勢いたが、外国に興味を持ち、そこから他人と違う要素を見出そうとした」

サッチャー政権下で労働者階級が仕事を失っていくなか、それと直接闘うのではなく、サッチャーが掲げる物質的な裕福さを求める訴えに呼応するかのように、伝統的な労働者階級としての美徳を拒絶した。そして、他のヨーロッパ諸国の生活に憧れ、それをファッションで具現化していった。階級は生涯変えられないが、身なりはすぐに変えられる。その象徴が高価なスポーツウェアであった。

ダリオシュはさらに続ける。「政府から与えられた公営住宅に住み、父親や祖父と同じ工場で働き、いずれ結婚する、という労働者階級にとって当たり前の生活からカジュアルズは脱却した。その手段として、物質主義的に他の世界を見つめた。そこで工場の劣悪な環境で働かなくてもいい、公営住宅に住む必要もない、と考え始めた。90年代の日本もそうだろうが、左派は終身雇用制度を肯定した。それに対して、カジュアルズはアルマーニや数千ポンドもするストーンアイランドのジャケットを着る生活もあると気づいた。住む場所や職を決められた人生よりも、そちらに自由を見出した」

カジュアルズが傾倒したもうひとつのカルチャーがサッカーだ。サッチャーによって労働者階級の職業や尊厳、アイデンティティーが破壊されたが、唯一残ったのがサッカーだった。労働者階級、そしてカジュアルズにとって、サッカーは欠かせない娯楽であった。当時のサッカーシーンを取り巻く環境を、UK版『GQ STYLE』でエディターを務めるディーン・キシック(Dean Kissick)に聞いた。「当時のサッカーは、労働者階級のものと考えられていた。階級が明確に分かれていたのも影響していただろう。それを示すように、デイビット・ベッカムやスティーヴン・ジェラード、ウェイン・ルーニーのように、ほぼすべての人気選手は労働者階級出身。もし違う階級出身だったら話題になるくらいだ。また、80年代のサッカー文化が労働者階級のスポーツだったためか、悲惨な事件も招いた。〈ヘイゼルの悲劇〉や〈ヒルズボロの悲劇〉のような大事件があり、たくさんの人が亡くなり、フーリガンが責任を問われるような暗い時代でもあった」

1989年に起こったヒルズボロの悲劇に触れておくと、FAカップの準決勝、リバプール対ノッティンガム・フォレスト戦で、警備に当たっていた警察官が、すでにスタンドが満員だったにもかかわらず、入場の規制を怠った結果、テラスにいたサポーターがすし詰めになって窒息、もしくはピッチになだれ込んだ。結果、96人のサポーターが死亡した。明らかに警察の過失だったが、当時、彼らはそれを、悪名高いフーリガンのせいだ、と主張し続けた。事件から20年以上が経ち、ようやく責任は警察にあると判明した。このようなサッカーを取り巻く環境がいっぺんしたのが、1992年。この年に始まったプレミアリーグは、すべての試合がテレビ放送されるようになり、その放映権で多額の収入を得た。そして現在では、サッカーは労働者階級だけ、その地元の人々だけのものではなくなった。マンチェスターやリバプール、ニューカッスルなど、北部の大都市のチームは労働者階級のファンベースがあり、町にも大きな影響を与えているが、階級や地域を飛び越え、あらゆるバックグラウンドの人々がスタジアムに集まり、さらには観光客も多く見かけるようになった。

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

そんな労働者階級のためのスポーツだったサッカーが、テニスに始まり、モッズを始めとする音楽と結びついたサブカルチャーに愛されたフレッドペリーと、どのように結びついていったのだろうか。もちろん豊富なカラーリングのポロシャツを展開していたため、地元のサッカーチームのアイコン・カラーのポロシャツが手に入った、という理由もあるが、決定的要因はカジュアルズだった。

ディーンは「カジュアルズが求めていたのは、より文化的で高級に見えるようなスタイルだった。だからこそ、伝統的なブランドのアイテムを気に入っていたのだろう。当時のフレッドペリーは、恐らくテニスと関連づけられていたはずで、より高齢向けで裕福な中流階級の服というイメージがあった。決してサッカーブランドではなかったが、カジュアルズはフレッドペリーを自分たちのものにした 」と話す。

ダリオシュは「フレッドペリーは、スリムフィットなフォルム、新しさの象徴として、モッズにとって不可欠なアイテムだった。Tシャツが下着と見なされていた50年代は、ポロシャツも同様に、今でいうクロップトップのような過激なスタイルで街を歩くようなものだった。しかし、フレッドペリーがそれを普及させ、イギリスの若者文化に浸透させた。その後、60年代後半になるとモッズはスキンヘッズになり、ジャマイカなど黒人の文化を取り入れた。同時にジャマイカ人は、クラークスの靴やカンゴールの帽子など、イギリスのブランドを好んで着ていたため、フレッドペリーも自然と受け入れられた。フレッドペリーは、労働者階級にルーツがあると同時に洗練されたスタイルで憧れの対象、という相反する要素がある。白人や黒人を問わずあらゆる人種、モッズやカジュアルズなど様々なユースカルチャーに受け入れられてきた。そんなフレッドペリーはサッカーファンのカジュアルズにとって非常に重要なブランドにもなった。その理由は、常に音楽やユースカルチャーと結びつき、他よりも少しだけ高価で良いもの、というイメージを保ってきたからだ」

カジュアルズは、サッカーとフレッドペリーを結びつけ、さらには、ストリートでスポーツウェアを着るスタイルを一般化させた。このムーブメントが、80年代後半に起きた、アシッドハウスとレイブカルチャーに繋がっていく。『ボーイズ・オウン(Boy’s Own)』のような、アシッドハウスとサッカーとファッションをテーマにしたファンジンも存在し、それを証明する。

デクランによると「90年代といえばアシッドハウス。個人的には、マンチェスターのハシエンダというクラブが印象に残っている。また、『ボーイズ・オウン』などのファンジンは、カジュアルズのカルチャーとアシッドハウスのムーブメント、テラス文化とナイトクラブのダンスフロアを結びつけた。テラスで試合を観ていた若者が、土曜にはナイトクラブでエクスタシーを飲み、アシッドハウスを聴いて踊っていた」

『ボーイズ・オウン』のエディターのテリー・ファーレイ(Terry Farley)が、カジュアルズについて影響を受けた『ジ・エンド(The End)』というファンジンがあった。80年代前半、リバプールを拠点とし、サッカー、ポップス、酒、ドラッグ、左派政治、そしてファッションの境界線を曖昧にし、破壊的な方法で表現した。エディターのピーター・フートンは、のちに90年代のインディダンスの原型となるバンド、The Farmのメインヴォーカルとして有名になった。Photo By Yohei Miyamoto 資料提供 CLOSER

ダリオシュによると、「カジュアルズは70年代から80年代に根付いた文化で、80年代後半と90年代のスポーツウェアの流行のもととなった。ただ、カジュアルズとアシッドハウスは厳密にはイコールではない。確かに、『ボーイズ・オウン』のようなファンジンでは、テラスのスラングや、発展しつつあったカジュアルズのサブカルチャーなどに加えて、アシッドハウスも掲載していたが、これはどちらかというとアシッドハウスをフューチャーしたことで著名だ。それにアシッドハウスとレイブが生まれた80年代後半から90年代にかけて、カジュアルズのスタイルは衰退していた。88年に爆発的に広まったレイブが、カジュアルズの文化を衰退させたといっても良いだろう。またエクスタシーが終わらせたともいえる。しかし、レイブやアシッドハウス以前に、カジュアルズがスポーツウェアをストリートに落とし込み、それが90年代のこれらの文化に影響を与えたことは間違いない」そうだ。

90年代前半の英国のファッションは、レイブカルチャーに代表されるように、カラフルでオーバーサイズのスポーツウェアがトレンドとなっていた。また、ヒップホップ、スケートボード、スノースポーツの台頭などが合わさり、スポーツウェアが、より欠かせないアイテムとなっていく。しかし、これまで見てきたように、英国では、モッズがフレッドペリーを愛用し、カジュアルズがフレッドペリーをサッカー文化に根付かせ、さらにはジャージーやスニーカーなどのスポーツウェアをストリートに落とし込んだ経緯があってこそ、90年代のスポーツスタイルのさらなる飛躍に繋がっていったのである。

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

サッチャー政権下で虐げられた労働者階級。その中でサッカーとファッションが融合したサブカルチャーのムーブメント、カジュアルズが生まれた。カジュアルズは、旧来の労働者階級の生活を拒絶し、ヨーロッパへの憧れを元に、スポーツウェアを着ることで、旧態依然とした生活から脱却する、という意思を示し続けた。この意思表示の象徴が、スポーツウェアを街で着ることであり、そのファッションが一般化し、アシッドハウスやレイブカルチャーを中心とした、90年代のスポーツスタイルへの流行へと繋がっていった。

現在の英国では、カジュアルズが夢見た世界が現実になったかのように、階級の概念が希薄になりつつあるようだ。しかし、経済状況は悪化し、さらにそれが、移民問題と結びつき、その結果、英国はEUを脱退した。

英国の現状についてディーンは語る。「90年代後半か00年代前半にかけて、労働者階級や上流階級が以前よりもずっと縮小し、国全体が中流階級になった。当時の大統領だったトニー・ブレアが、『われわれはみな中流階級だ』と述べた通りだと思う。仕事や社会の性質も変化し、かつて、労働者階級は重工業や工場など、特定の仕事と紐づけられていたが、現在の英国では、そのような仕事がほとんど存在しない。そして今では、国で最も裕福で権力があったロンドンに住む上流階級よりも、おそらく、中流階級の労働力で成立する金融業界や不動産業界で働く人々の方が裕福だろう。つまり、上流階級も滅びつつある。ただ階級による問題が軽減されたいっぽうで、新たな問題も噴出している。それが移民の問題だ。かつて労働者階級がそうだったように、実際には問題は起きていないが、雇用の減少、不景気による給与の減額など、社会におけるあらゆる問題の責任を、かつての労働者階級にそうしたように、移民に押し付けてしまっているのを感じている」

現在の英国ファッションシーンについて、ダリオシュはこう分析する。「ここ5年の大きな流れとして、中産階級が労働者階級のような格好をするようになった。裕福な家庭の若者が、ストリートの若者のようなタフな格好を好むようになった。ただ、労働者階級がストリートウェアを着るのは、喧嘩に巻き込まれないよう、自分を強く見せるためだ。暴力沙汰に巻き込まれないよう、自分のイメージをつくりあげなければならなかった。富裕層は自分の身を守るために服を選ぶ必要がないにも関わらず、ストリートファッションを好むという奇妙な現象が起きている。今の大衆文化において、富裕層の若者は裕福に見られるのを嫌がる傾向にあるのだろう」

今季、フレットペリーとコラボレーションを発表したパレスの専属ライダー、ブロンディ・マッコイが手がけるテムズ・ロンドンも、カジュアルズを彷彿とさせるようなアイテムをリリースする。パレスはアンブロに始まり、リーボック、アディダスと次々とコラボレーションを実現させている。確かに、現代のストリートスタイルは、カジュアルズを根底にした90年代初頭のスポーツスタイルに回帰しているのだろう。フレッドペリーは、それを具現化するために、モノクロームテニスというカプセルコレクションで、当時のスタイルやロゴをベースに、再解釈し展開する。

カジュアルズが旧来の労働者階級を拒絶し、新たな時代への憧れを模索し、その精神性をファッションに求めたように、その良し悪しはさておき、ファッションは時代を映す鏡だ、と度々評される。英国のEU脱退、トランプ大統領のアメリカ・ファーストなど、グローバル化に反してナショナリズム的な思想が蔓延している時代において、フレッドペリーが打ち出す90年代のスポーツスタイルは、まるで、ベルリンの壁が崩壊しグローバル化が加速した90年代に、何か想いを馳せているかのようだ。

サッチャー政権下の労働者階級〈カジュアルズ〉とフレッドペリー 01はこちら

FRED PERRY オフィシャルサイトはこちら

90年代当時のクラシックロゴが前面に入るTシャツとスウェット。FRED PERRY オフィシャルサイト Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

クラシカルな印象のピンストライプ柄を落とし込んだ、ジャージー素材のトラックスーツ。FRED PERRY オフィシャルサイト Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

サッチャー政権下の労働者階級 〈カジュアルズ〉とフレッドペリー 01

Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

フレッドペリーが90年代に使用していたロゴが入ったコットンキャップ。伝統的なアジャスターの代わりに、調節部に伸縮性を持たせたリブを採用する。FRED PERRY オフィシャルサイト Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

90’sストリートスタイルを象徴するコーチジャケットを、着心地の柔らかいジャージー素材でアップデートしたアイテム。FRED PERRY オフィシャルサイト Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

英国発のサブカルチャーに触れるとき、〈階級社会〉と〈時事政治〉を、踏まえなければならない。社会情勢、時代背景のなかで、虐げられてきた労働者階級のティーンエイジャーによって、音楽やファッションが具現化されてきたからだ。
そして、階級や人種の垣根を超え、ほぼ全てのサブカルチャーにおいてアイコニックな存在となったフレッドペリー。なぜ白人にも黒人にも愛されてきたのか。上流階級をはじめ、モッズやスキンズなど多様なサブカルチャーに受け入れられるのか。
ファッション誌『i-D』、UK版『GQ STYLE』などに携わるエディターの証言を交え、英国文化とフレッドペリーのカプセルコレクション〈モノクロームテニス〉が打ち出す90’sミックススタイルを解明するために、〈カジュアルズ〉に焦点をあて、全2回で紹介していきたい。

若き日のフレデリック・ジョン・ペリー。彼はプレイボーイとしても有名で、生涯で女優やモデルなどと、計4回の結婚をしたことでも知られている。

まずは、フレッドペリーの歩みをおさらい。1909年生まれのフレデリック・ジョン・ペリー(Frederick John Perry)は、1928年、卓球で世界チャンピオンの座についたのち、テニスに転向すると、1934年ウィンブルドンで優勝する。その後、グランドスラムを達成するが、テニス界の階級構造に苛まれた。紡績業に従事する労働者階級出身という生い立ちからであった。

1940年代後半、引退したのち、自らのブランド〈フレッドペリー〉を立ち上げると状況が好転する。ウィンブルドンのシンボルである月桂樹をモチーフにしたロゴマークの使用が許可されたのだ。テニスが上流階級のためのスポーツだ、と疑わない紳士気取りな人々の執拗な偏見に挑戦し続けた結果、勝ち取ったものであった。

これを機に、フレッドペリーはテニスウェアだけではなく、世界中のストリートシーンに受け入れられるべく歩み始める。まず着手したのがリストバンド。その後、世界中のストリートファッションのアイコンとなったポロシャツをリリースする。最大の特徴はスリムフィットなフォルム。これが50年代後半に生まれたモッズに愛された。彼らのスタイルは細身が基本。そんなスタイルにぴったりとハマったのだ。また、目の詰まった鹿の子素材を採用したため、一晩中踊っても型崩れしないタフなつくりも人気を博した理由だった。

60年代後半に登場した〈スキンヘッズ〉は、ブーツとデニム、プレイシーズ(サスペンダー)に、フレッドペリーのポロシャツをセレクトした。彼らはモッズから派生した労働者階級によるサブカルチャーで、サッカーをこよなく愛していた。この頃になると、それぞれの地元のチームカラーに合わせて選べるほど、豊富なカラーバリエーションのポロシャツを展開していた。

ネオモッズを牽引したThe Jamのポール・ウェラー。フレッドペリーを愛した著名人として真っ先に名前が挙がる。

70年代後半は、多くのムーブメントが生まれたパンクシーンでは、労働者階級の若者が結成したThe Buzzcocks、Sham69などがフレッドペリーを愛用した。また、映画『さらば青春の光(Quadrophenia)』が公開され盛り上がるネオモッズのアイコンともなった。マンチェスターでモッズの系譜から生まれ、ノーザンソウルに傾倒し、サッカー観戦を楽しむ、その名も〈ペリー・ボーイズ〉からも当然愛される。1979年のペリー・ボーイズのトレンドは、のちの〈カジュアルズ〉起源説へと繋がる。詳細は後述するが、カジュアルズは、70年代後半から90年代初頭に起こった、スポーツウェアを中心としたスタイルの一大ムーブメントだ。

80年代初頭には、2トーン・スカの擡頭により、スキンヘッズのスタイルを踏襲し、ポークパイ・ハット、スーツ、ローファーにフレッドペリーというスタイルが流行する。The Specialsは、労働者階級の白人と黒人からなるバンドであったが、彼らは揃ってポロシャツを愛用していた。

80年台後半から90年代初頭には、アシッドハウス、レイブカルチャーといったユースカルチャーが生まれる。その後、英国では、大きなサブカルチャーのムーブメントは生まれていない。しかし、フレッドペリーは、その後のブリティッシュ・ポップ、2000年以降のラフ・シモンズとのコラボレーションなどでもわかるように、メジャーシーンとの結びつきやモード界とのコラボレーションを通じて、より多くの人々を魅了し続けるブランドへと成長していく。

そんなブランドが今季より打ち出すモノクロームテニス。90’sスポーツスタイルを掲げるこのカプセルコレクションを読み解くために、70年代後半に生まれ、80年代に最盛期を迎え、90年代のアシッドハウス、レイブカルチャーに大きな影響を与えた、カジュアルズのカルチャーを詳しくみていきたい。

80年代のカジュアルズが愛したアイテムが網羅された写真集『80s CASUALS』(80scasuals.co.uk)。Photo By Yohei Miyamoto 資料提供 CLOSER 

2003年設立のサッカーファンの若者を対象とした最初のアパレルブランドが出版する写真集『80s CASUALS』(80scasuals.co.uk)。Photo By Yohei Miyamoto 資料提供 CLOSER 

80年代のカジュアルズのスタイルから、2001年のサッカーファンのスタイルまでを収めた写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』。Photo By Yohei Miyamoto 資料提供 CLOSER 

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

70年代後半に生まれた〈カジュアルズ〉。サッカーファンのファッションが、英国全土に広がり、脚光を浴びムーブメントとなった。そのスタイルの特徴は、トラックスーツ(ジャージー)やナイロンジャケット、スウェット、スニーカー、キャップなど、スポーツウェアを中心としたスタイルだ。今でこそ、街でスポーツウェアを着用するのは一般的だが、フレッドペリーのポロシャツを除いては、英国でスポーツウェアがファッションとしてフューチャーされたことはなかった。このカルチャーについて、UK版『GQ STYLE』でエディターを務めるディーン・キシック(Dean Kissick)は、「カジュアルズが普通と違うのは、ほとんどのサッカーファンは、チームカラーやユニフォームを身に着けているが、カジュアルズは誰よりもハードコアなファンなのに、公式ユニフォームも着ない。どのチームを応援していようが、みんな似たような格好をしているのが特徴だ」と語る。

また、『i-D』のデクラン・ヒギンス(Declan Higgins)は「テラス(ゴール裏のベンチや椅子がない立ち見エリア)文化とも密接な関係がある。2000年代後半、僕が育った地域では、カジュアルズの大きなムーブメントがあった。14歳の頃、友達はみんなストーンアイランドやリーバイスのジーンズ、スタンスミス、リーボック、CPカンパニー、フレッドペリーのポロシャツなどを買っていた。バーバリーやアクアスキュータムもとても人気があった。音楽はジョイ・ディヴィジョン、オアシスやデヴィッド・ボウイなどを聞いていた」と自身の体験を交えて話してくれた。

ICA(ロンドンの現代美術館)のコミュニケーション部主任であり、ロンドン芸術大学講師、フリーランスのライターや編集も手がけるダリオシュ・ハジ=ナジャフィ(Daryoush Haj-Najafi)はこう語る。「イギリス社会は非常に階級を重んじる。70年代のサッカーシーンは労働者階級のためのスポーツだった。工場従業員などの若者が多かったが、とても貧しかったわけではない。そもそもサッカーはお金のかかる趣味で、多くのカジュアルズはヨーロッパ各地に観戦に行くだけの余裕があった。ただ、犯罪者だったり、喧嘩っ早く、警察から隠れて喧嘩をしようとしていた連中もいた。そんな彼らが警察に怪しまれないようなスタイルをしたのが始まりだ。また、諸説あるが、当時流行っていたグラムロックやスキンヘッズ、ヒッピー・カルチャーへの反発もあった。特にサッカーを愛していたスキンヘッズは、すでに警察に目をつけられ、スタジアムに入れなかったからこそ、カジュアルズはブーツやデニムパンツではなく、トレーナーズ(スニーカー)を履き、スポーツウェアを着ていた。ただ、ユースカルチャーは、基本的に既存のスタイルに対抗する。カジュアルズ、スキンヘッズだけじゃない。モッズもパンクも、主流なスタイルを拒絶し生まれた。70年代前半に、街中でスポーツウェアを着るのは、とても特殊でアウトサイダーだった。爆発的に広めたのがカジュアルズだった」

しかし、ダリオシュの話で奇妙なのは、当時はスキンヘッズとカジュアルズ、どちらにも愛されたフレッドペリーの存在だ。また、カジュアルズのカルチャーを理解するうえで、男性ならではの美学も理解しておく必要があるという。

「抑圧的な労働者階級では、『この仕事をしろ』『決して大物にはなれない』と教えこまれる。すると道は2つしか残されていない。知性を身につけて労働者階級から脱するか、犯罪者になるかのどちらかだ。これはヒップホップ・カルチャーと全く同じ。さらにカジュアルズに女性はいない。僕が十代のころ『今夜、女の子をナンパできなかったら喧嘩する』というほど、みんな喧嘩を楽しんでいた。また、〈女性的でない〉という理由で、ヒップホップなら〈ファッション好き〉でも構わない、とされるのも同様だ。英国の80年代にも同じような現象が起き、サッカーにまつわるものや、タフさを押し出したものなら、〈ファッション好き〉でもいいとされたのがカジュアルズだった。今では性差別だ、と言われるかもしれないが、男性のファッションとは長年そういうものだった。わかりやすい例がボディバッグだ。今ではボディバッグを持つ男性は大勢いるが、以前は誰も持とうとしなかった。〈犯罪者が持つもの〉〈銃を入れるもの〉というイメージになった途端、みんなボディバッグを欲しがり始めた。そもそも男性は昔から反体制的なレベル・スタイル(rebel style)で、自分をタフに見せようとしてきた」

ただ、ここでハッキリさせておきたいのは、カジュアルズとフーリガンとチャヴの違いだ。どれもフットボールに纏わる言葉であるが、それぞれ異なる意味を持つ。フーリガンとは、サッカー場で喧嘩や暴動を起こす人々を指す。チャヴとは90年代後半以降、カジュアルズのファッションを真似た人々を指していたが、現在では、労働者階級の中でも、さらにアンダークラスを指す言葉として変化している。そして、カジュアルズは、あくまでストリートファッションのスタイルを指すものだ。同じ英国のサッカーファン、という意味では同じだが、その立ち振る舞いと行為、立場によってわかれる。

カジュアルズとチャヴの違いについて、ダリオシュは説明してくれた。「カジュアルズはチャヴが嫌いだった。チャヴはとても悪い言葉で、階級差別用語だ。ただ、この言葉をつくったのは同じ労働者階級の連中だ。90年代始め、カジュアルズはバーバリーを着ていた。90年代後半から00年代初頭にかけて登場したチャヴは、カジュアルズの格好を真似た。チャヴは、とても貧しい人が多く、ほとんどが生活保護を受けていて、いわゆる〈アンダークラス(underclass)〉の人々。カジュアルズは金持ちに見えるようにブランド物を身にまとい、ファッションへの理解がある、と思われようとした。20~30年後に中産階級の人々がこのスタイルを真似ると、パンクのように『嫌われるのを承知であえて着る』とチャヴを面白がっていたものもいた。カジュアルズはその服を愛していたが、最近、このスタイルのリバイバルで、人々はそれをタブーとして扱った。数年前にチャヴのようにトラックスーツやバーバリーのキャップを着れば、周りの人を怒らせた。でもカジュアルズが最初に着た時は、自分が洗練されている、と示そうとしていた。この2つは全くの別物だ」

また、カジュアルズとフーリガンの違いをディーンに尋ねた。「フーリガニズムとは、争うこと。試合会場で他のチームを応援するライバルギャングたちと喧嘩するのがフーリガニズムだ。それよりも、カジュアルズにとっては服装や生き方が重要だ。ただ、確かに両者はオーバーラップしていて、カジュアルズの中にフーリガンもいるし、フーリガンの中にもカジュアルズがいる」。当たり前だが明確な違いが英国内では認識されているのがわかる。

カジュアルズの発祥地域については、マンチェスターとリバプールという2つの説がある。マンチェスター近くのクルー(Crewe)という町で育ったデクランは「マンチェスターから電車で20分の町に住んでいたため、ペリー・ボーイズと育ったような思いを抱いていた。ペリー・ボーイズは、1979年頃に生まれたスタイルで、主にマンチェスター・ユナイテッドのファンだ。彼らは自己表現のためのファッションやスタイルを大切にし、髪型はウェッジ・カットで、ヨーロッパの風変わりなスポーツウェアにスタンスミスをあわせていた。なかでもフレッドペリーのポロシャツは、ペリー・ボーイズのシンボルだった。土曜の試合が終わった後、そのままナイトクラブに行ける格好だね。試合で他のファンと喧嘩していたけれど、個人的にはそれほど暴力的だとは思わず、それよりも外見の方を気にかけていた印象がある」。ペリー・ボーイズから派生して、カジュアルズが生まれたというのがマンチェスター説である。
一方で、リバプールのサッカーファンから、この文化が始まったとする声もある。当時のサッカーシーンで最強を誇ったリバプールFCが、ヨーロッパのチャンピオンシップに出場していので、チームに同行してヨーロッパ中を旅行し、各地で様々なスポーツウェアを買い漁り、ときには盗みを働きスタイルを確立したとするのがリバプール発祥説である。
いずれにせよ、70年代後半にイングランド北西部のサッカーファンのあいだで、カジュアルズは生まれた。

カジュアルズの変遷については、10代の頃、中国系のスーパーマーケットで出会った同僚からサッカーファンの趣味嗜好を聞かされ、そこからファッションにのめり込んでいったというダリオシュの話が面白い。

「70年代によく着られていたのは、フレッドペリー、セルジオ・タッキーニ、ラコステ、バーバリーだった。当時バーバリーは今よりも安価で、ラコステの方がずっと高価だった。メディアで、あまり紹介されていないブランドなどを掘り、知識を競うのも、メンズ・カルチャーの特徴だ。また、60~70年代にかけて、技術を売りにしたスニーカーも増えた。男性は衣服の技術を重視することも理解しなければいけない。80年代になると、イタリアで技術力を駆使したストーンアイランドが登場し、アルマーニジーンズにも注目が集まった。しかし、イングランド北部では、90年代前半になっても、そういったブランドを取り扱うショップは、ほとんどなかった。彼らは出身地、地元の住民、階級を愛すると同時に、知識欲が刺激される海外への憧れを抱いていた。カジュアルズのスタイルは、メンズのファッションカルチャーを体現しながら、時とともにそのスタイルを変化させストリートに広まったんだ」

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

写真集『A Casual Look: A photodiary of Football Fans 1980’s to 2001』より

ここまではカジュアルズについてみてきたが、ここで、70年代後半から90年代初頭の英国の社会情勢へと話を移したい。カジュアルズがなぜ、高級志向のファッションを求めたのか、そして音楽ではなく、サッカーでありファッションだったのか。社会情勢の中で労働者階級が、何を感じカジュアルズを体現していたのかを探りたい。

カジュアルズが生まれた時代の英国社会とは、79年から90年まで首相を勤めた、マーガレット・サッチャーによる政治政策について検証する必要がある。サッチャー政権がとった緊縮財政は、多くの労働者階級にとっては厳しいものとなった。

それまでの英国では、充実した社会保障制度が労働者階級を救っていた。1945年、第二次世界大戦が終戦を迎え、戦勝国となった英国では、第一次世界大戦後の貧困社会へ戻ることを危惧していた。戦争から帰還した兵士が、平和と仕事を求め、クレメント・アトリーを支持し、労働組合が基盤となる労働党が政権を獲得した。アトリー政権は社会主義路線にのっとり、充実した社会保障制度を導入する。国民保険サービスにより医療費が無料となり、庭付きの公共住宅を安い家賃で供給し、住環境を改善した。また、炭鉱、鉄道、ガス、水道、電力を国有化することで、労働者階級の人々に安定した職を提供した。

これに対してサッチャーは、小さな政府を目指し、自由競争を促進した。規制緩和と民営化を進め、福祉国家の解体を進めた。当時の英国の労働者階級は、何世代も同じような職業に就くのが誇りとなり、アイデンティティーにおいて大きな役割を果たしていた。しかし、そんな職種が民営化に伴い、次々に廃止された。労働組合は各地でストライキを実行するも、〈鉄の女〉の愛称で知られるサッチャーは断じてこれに屈せず、最も力を持っていたとされる炭鉱の労働組合を完全に牛耳っていく。そのため、1983年に184あった炭鉱が、94年の民営化時には15にまで減少していたほどだった。

この社会状況についてディーンは、「労働者階級にとっては、とても厳しい時代だった。労働組合は労働者を支援していたが、サッチャーによって叩きのめされた。彼女は労働者階級の人々の権利を奪い、厳しい状況で暮らす人々を支援するための政府の給付金を削減した。サッチャーは今でも労働者階級の大半や、政治的に左寄りの人たちから嫌われているが、北部では突出して憎悪の対象となっている。しかし、個人的に彼女の政策は、どちらかといえば成功したと考えている。国民は望んでいなかったと思うが、政治が変わり、その遺産は今でも残っていると感じる。それに、海外の多くの政治家がサッチャーを尊敬しており、彼女のアイデアの多くを信じているのも知っている。彼女は今でも憎悪の対象であり、右寄りの人にとってはヒーローなのだ」と述べる。

マーガレット・サッチャーによる政策の良し悪しはさておき、サッチャー政権によって労働者階級が苦しい立場に追い込まれたのは事実である。炭鉱産業や繊維工業など、労働者階級が従事していた業種は衰退し、労働組合と労働党の関係性が悪化した。労働者階級の文化やアイデンティティーの全てが崩壊するなかで、唯一残されたのがサッカー文化だったのだ。

ここまでみてきたように、人種や階級、はたまた様々なサブカルチャーから支持されてきたフレッドペリー。そして、カジュアルズによって広まったスポーツウェアの文化。それが生まれた時代に行われたマーガレット・サッチャーの緊縮財政。
次回は、サッチャリズムによって、カジュアルズがどう変化したのか、そして、サッカー文化がどのような発展を遂げたのか。また、英国は90年代へ向けて、どのような変遷を辿るのかなど、フレッドペリー、カジュアルズ、サッチャリズムがどのように絡み合い、90年代を迎えるのかを紹介する。
そして、カジュアルズが広めたスポーツウェアと、90年代のスポーツスタイルとの関係を紐解きたい。

ゆったりとした身幅やアームホールが特徴のボディーに、クラシックな月桂樹ロゴが入るアノラック。表地は伸縮性の高密度のジャージー素材を使用することでモダン感を、裏地にはやや起毛感があり保温性が考慮されている。FRED PERRY オフィシャルサイト Art Work By Shinryo Saeki 資料提供 Casual State of Mind

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